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PKO① UNEFとスエズ動乱~国連平和維持活動の萌芽~

 国連による平和維持活動の始まりはパレスチナにあると言っても過言ではないだろう。このためまずは、第一次中東戦争を機に成立した国際連合休戦監視機構UNTSOの設から第二次中東戦争の後UNEFの設立までを簡易的に記述する。

第1次中東戦争の勃発
1945年にパレスチナはユダヤ人とアラブ人による紛争によって混沌とした状況に陥っていた。国連からの信託統治を受けていたイギリスには経済的・軍事的余裕を二度の大戦で失い、パレスチナの混乱を収拾できずにいた。この状況からイギリスはこの問題を半ば丸投げする形で国連へ委託する。国連ではパレスチナの将来的な国家形態をめぐり激論が交わされ結局の所アラブ人国家とユダヤ人国家の2つの国に分割されることが決められた。後にパレスチナ分割決議と呼ばれるものである。 (内容に関してはA/RES/181(II)参照)

(画像は分割案のもの青がユダヤ人国家、オレンジがアラブ人国家、白は国際管理)
しかし、この決議はパレスチナにおける破局を意味するものであった。アラブ人はパレスチナをアラブ人の土地と認識しており、いきなり来たよそ者のユダヤ人と自分の土地を半分でユダヤ人と分け合えなどという勧告には従えなかったのである。そして、ユダヤ人は独立を宣言「イスラエル」を建国する。これに周辺のアラブ諸国イラク、ヨルダン 、レバノン、エジプト、シリア5カ国は武力侵攻でこれに答えた 。
第一次中東戦争は当初アラブ側が数も質も上で圧倒していた。ところがイスラエルは従軍経験のあるユダヤ人義勇兵や武器を世界中からかき集め結果的に逆転、アラブ側に勝利する。疲弊した両者はラルフ・バンチの仲介で休戦協定を締結する。しかし、結果は痛み分けで、エルサレム市の半分はヨルダンが保持、またガザ地区もエジプトが死守していた。このことから戦争が一応の終結を見せても両者の緊張状況は相変わらず高いままであった。国連は両者の停戦を度々勧告しており、停戦を受け安保理決議50号を可決した。内容としては調停官が軍事監視団の援助の下休戦を監視するというものである。 (S/RES/50参照)これをきっかけに国連は実際に平和維持にコミットすることになる。

第二次中東戦争と国連
その後第二次中東戦争が勃発し、英仏は直接介入する。エジプトとイスラエル・英仏は戦闘状態にはいり、中東での緊張は一気に高まった。この英仏のの介入は、エジプトのスエズ運河国有化に伴う利権侵害に対する軍事行動で明確な侵略好意であった。エジプトは軍事力によって圧倒され戦闘が続けば敗北は必至だった。これに対処する安全保障理事会は英仏が軍事介入を警察行動と主張し、拒否権を行使した。安全保障理事会は事実上機能不全に陥り、史上初めて国連緊急特別総会が開催されることになる。 この国連緊急特別総会において、戦闘の停止の勧告がなされ、 続けて総会決議998,1000,1001 が可決され国連緊急軍(以下UNEFⅠ)の創設が行われることになった。このUNEFⅠはカナダの外務大臣であったレスター・B・ピアソンの提案によって、各国の軍隊が国連主導のもと強制措置とは異なり受け入れ国の同意を持って行われる事になった。UNEFはブラジルやカナダ等紛争当事国との関係が比較的中立な立場の国から部隊が派遣され、最大時で6000人が停戦監視任務に従事した。UNEFは現地の情勢安定化に一定の貢献をしたほか、国連が現地に介在するという前例は歴史的に大きな意味を持つものであった。しかしながらエジプト・イスラエルの関係が再び悪化した1967年5月16日にエジプトの要請により、任務を中止し撤退した。
第4次中東戦争の停戦合意後、安保理決議340号(S/RES/340) によって再びUNEFは設立されエジプト・イスラエル間の平和条約締結でその役割を終えるまで任務についた。
このようにUNEFは国連の現地介在の最初の例となり、停戦監視による一定の成果を収め今後の国連による平和維持活動の橋頭堡とも言える立ち位置であったと言える。

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