見出し画像

藤由達藏のショートショート「チップよ人の望みの喜びよ」

 俺は、後頭部に就寝用のチップを装着して、ベッドに横になった。今日もたくさんの仕事をこなした。振り返りのプログラムが作動する。ほんの一分間で一日を振り返るのが日課だ。映像が今日一日の自分の体験を再現してくれる。そして充実感とともにいい気分になる。ああ、眠くなってきた。
 目が覚めた。朝だ。面白い夢を見たが、目を開けると夢の記憶は消し飛んだ。覚醒と同時に夢は消去され、いい気分だけが残るようにプログラムされているのだ。快適な起床プログラム付きの「できる人になる目覚め最高の就寝」というチップを購入したのは正解だった。目覚めると同時に、大好きなバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が頭の中に流れるようになっているのもいい。
 たまには別の曲にしたいと思う日もあるが、プログラムを書き換えるのには追加で高いコストがかかるのでそのままにしている。
 会社に着くと、部長がゆっくりと後頭部からチップを外しながら笑顔で声を掛けてくれた。
「おはようございます」
「おう、おはよう。今日のアジェンダはわかってるよね?」
「はい、量子コンピュータの実装提案ですよね」
「よろしく頼むよ」
 部長は一足先に出勤し、提案内容を入れたチップをインプットしていたらしい。俺もチップを借りて後頭部に装着。提案内容をインプットした。

「いやあ、ご苦労。お前のプレゼンいつにも増して切れが良かったな。先方もずいぶんお前の情報に感心していたぞ」
 部長は「上機嫌な上司」というチップを入れているせいか、実にやさしい。俺も「従順で優秀な部下」というチップを入れているので息が合う。
 俺が褒められたのは、裏ルートから手に入れた「量子コンピュータ業界の最新情報」というチップをインプットしておいたからだ。クライアントも知らない最新情報で、随分と値が張ったのだが、受注できれば安いものだと考えて購入したのだ。
 仕事は会社が提供する各種チップのお陰で万事順調に進んだ。
 会社を出た俺は、「彼女との素敵な夜を過ごす」というこれまた値の張るチップを装着した。俺は背筋が伸び姿勢が良くなるのを感じた。きっと今、顔面の皮膚に憂いを漂わせながらも二枚目な表情が浮かんでいるはずだ。
 自動運転タクシーに乗り込み、約束のレストラン「クラシック」へと向かった。花屋は予約どおり自動運転タクシーに真っ赤な薔薇の花束を積み込んでくれていた。万事順調だ。
 レストラン「クラシック」に着くと、顔認証ですぐに個室席へと案内された。スタッフは「高級店のエレガントなおもてなし」チップを入れているようだ。個室に入ると注文通り、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」を流してくれている。俺はいい気分だ。
 まもなく彼女がやってきた。ドアが開き、彼女は笑顔で近づいてきた。俺はバラの花束を渡しながら、ハグで受けとめようと彼女を引き寄せた。
「あなたの本当の姿を見たいわ」
 彼女の甘いささやきは俺のハートをくすぐった。彼女は俺の髪の中に指を入れた。こんなところで大胆だ。しかし俺は「彼女との素敵な夜を過ごす」チップを入れているから動揺しない。
「こんなものはいらないわ」
 プツッ。
 彼女は俺の頭からチップを抜いた。俺は動揺した。どうしていいかわからない。
「なにをするんだ・・・」
 かろうじて口にした言葉がなんとも惨めだ。
「チップなしで話しましょう。ね?」
 俺はドキドキして何も言えなかったが、かろうじて首を縦に振った。それからはずっと冷や汗のかき通しで、何を話したかもわからない。彼女は俺の膝に手を置きながら巨額の借金があることを打ち明けた。びっくりするうちに俺はID認証システムをつかって、彼女の巨額債務の連帯保証人にさせられていた。
 彼女は温かい唇で俺の口を塞いだ。俺は心臓が爆発しそうだった。
「ありがとう。お礼にこのチップをあげるわ」
 彼女は俺の後頭部にチップを装着した。次の瞬間、俺の記憶がなくなった。
 美しい女性が背を向けてドアを開けて出て行こうとしている。クラシック音楽が聞こえる。なんという曲だろう。俺は今、ただ、いい気分だ。

(了)

(初出掲載:2023年1月23日発行「夢が実現するメルマガ」第294号)

★夢が実現するメルマガ 登録ページ
https://resast.jp/subscribe/64330

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?