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ツルイの小屋だより①

 ▪️某月某日 
 森と湿原の地に住んでいる。表向きには私設図書館を運営していることになっているが、開館休業状態で日々司書として、来るあてのない客を待ちながら机に向かい取りとめもない妄想を膨らませている。つまり表向きは暇な私設図書館司書だが、裏でも同じ暇な司書なのである。
 人口2500人の村でそもそも私設図書館の需要などほとんどないことは初めから薄々分かっていた。村の図書館ですらそれほど使われていないのに、わざわざどこの馬の骨が運営しているかわからない私設図書館に誰が足を運ぶだろう? でも、わたしの認識は間違っているようだ。調べてみると、ここより人口の少ない村で、立派に私設図書館を運営している例が少なくないらしいのだ。要は熱意と行動力なのだろう。といっても出来ることと出来ないことがあり若い頃のような情熱の火も燻りかけているので、自分なりの流儀で、地道に図書館を続けていこうと年の始めに決意を新たにしたばかりである。

 ▪某月某日
 自分なりの流儀と先ほど述べたが、客が来ず時間があるのだから、司書机を執筆机として日がな書き物をすることが自分の流儀(スタイル)となっている。資料は周りにたくさんあり、誰にも邪魔されずに書き物ができる。こんなに満たされた環境はない。まるでしつらえたかのようだ(いやいや、目を覚ませ、自分でしつらえたのだ)。
 私設図書館の1日は早い。冬は8時にはストーブを焚き、来るかもしれない客を歓待すべく部屋全体を暖める。夏はもう少し早く7時には書棚を整え、図書館の空気を入れ替え客を待つ。窓からは冬は白い絨毯が敷かれたような雪原、夏は目に眩しい緑の樹々を眺めることができる。書き物に飽きたら、窓の外に目をおとすだけで、心の安らぎを得ることができる。また目についた棚の本をおもむろに抜いて、束の間、読書に没頭することもできる。こんな理想的空間はなかなかない。
 しかし、本日も入館者は自分だけのようだ。

▪️某月某日
 私設図書館であるなら、他の図書館と差別化する際立った個性を持ってしかるべきだと言う人もいるかもしれない。世の中にはマンガ図書館やカストリ雑誌図書館など個性豊かな私設図書館も多いと聞いている。
 ここは館主でもある司書が20代からほぼ捨てずに集めた雑誌や単行本のみが収められている。とりわけ尖がった個性があるわけではないのは司書の個性と同じ。個人の蔵書を図書館として解放しただけ、と言われればそれまでだが、背表紙を眺めているだけで館主の人柄が分かる、という利点がある。自分は口下手なので、蔵書を見てもらうだけで自分のことを理解してもらえるならこんなに手っ取り早いことはない。
 一つ問題があるとすれば、目立つところに『裸で覚えるゴルフ入門』や『おなら大全』などが置かれているため、それら少々クセのある本で自分を判断されると、2度と図書館の敷居を跨いでもらえないというデメリットがないわけではないということだ。入館者が増えない理由は、案外そんなところにあったのかもしれないが、今のところ誰も教えてはくれない。言いづらいのか。

 ▪️某月某日
 客が来ない私設図書館司書の1日は、いたって平凡である。本の照会の連絡も入らないので司書らしい仕事といえば、溢れた本の整理くらいだ。想像ではこんな問い合わせがあるはずなのだ。
 「あのー、日本三大奇書と呼ばれる小説の中で、読んでるだけでこちらの気がおかしくなるような小説があるらしいのですが、お宅の図書館にありますか」
 「三冊とも読むとおかしくなるレベルですが。その本の特徴はどのようなものですか」
 「なんだか胎児の夢とかチャカポコチャカポコといったお経とか、無茶苦茶なお話らしいんですが」
 「ご希望の本は当図書館の書架に、モチロンあります!」
 理想的だな、こんな問い合わせは。


 さて、待っているだけでは来館者が増えるわけはない。そこでありきたりと言えばありきたりだが、所蔵する本の中から司書オススメの本を紹介していくことにする。こうした地道な作業が、来館者を増やすことに繋がることを祈りながら。

 ▪️某月某日
 「ポツンと一軒家に暮らしたい」。移住を検討している人と話すとよく聞く言葉の一つだ。テレビの影響だろうか、それともコロナ禍や出口の見えない無理ゲー社会のせいなのか、人家すらない辺境の地に住まいを建て、サバイバル感覚で日々を過ごす、そんな生活に憧れを抱く人が増えているという。YOUTUBEを観てもそんなポツイチ(と略してみた)生活をしている人がかなりいることがわかる。
 ところで日本人が初めて「ポツイチ」に憧れを抱いたのはいつ頃からか? 『北の国から』の放送開始時である1981年が怪しいとわたしは睨んでいる。バブル狂騒に突入する時代だからこそ、反時代の象徴としての丸太製のポツイチが人の心を捉えたのだろう。
 さて一方、アメリカでの(世界でのといってもいいだろう)「ポツイチ」願望の起源ははっきりしている。それもかなり古い。ヘンリー・D・ソローの『ウォールデン 森の生活』が出版された年、1854年のことだ。日本では軍艦を率いたペリーが来航し、日米和親条約を結んでいる。明治維新前夜の頃だ。
 28歳のソローは生まれ故郷であるボストン近郊コンコードの人里離れたウォールデン湖畔に自ら小屋を建て、独居しながら労働や自然観察を行い思索を深めていく。こうした2年2ヵ月の生活から生まれたのが『森の生活』だ。
 今でこそナチュラリストやネイチャーライターのバイブルと称される本書だが、発行当初はそれほど注目されなかったという。古典と呼ばれる書物は得てしてそんなものか。建国から100年経ったとはいえまだまだ開拓の余地が残されていた米国では、未開の地に「ポツイチ」するものが大勢いたことは想像に難くない。米国は広いのだ。彼はそんな大勢いるポツイチたちの一人にすぎなかったはずだ。
 ではなぜソローの『森の生活』だけが今だに刺激的な書物として読み継がれているのだろうか。結論を先に言うと、「ポツイチ」で手に入れたものが〈自然のそして自然な思索〉だったからだ。『森の生活』を一言で要約することは難しい、というより無意味だ。この書は思索がウサギのように野をかけたかと思うと、瞬時に天高く飛び、鳥の視線になって全体を俯瞰する。また気がつくと川の底に棲むという魚の主のようにジッと動かず黙考する。自在な思索の跡を辿るという唯一無二の快楽に浸ることができる。そんな稀有な体験ができる本は、なかなかない。

ーーーーーこんな感じですが、来館者は増えるでしょうか、甚だ疑問です。

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