今村夏子『こちらあみ子』読書感想文
恥ずかしながら映画《花束みたいな恋をした》(以下:花恋)で初めて今村夏子という人を知った。
花恋は悲しいくらいに刺さらなかったけれど、花恋の中で麦くんと絹ちゃんが言う「「ピクニック」を読んで何も感じない人間」とは何なのかが気になって読んでみることにした。
読者は神の視点になれない
『こちらあみ子』は「こちらあみ子」「ピクニック」「チズさん」の3作品でできている。
結論として、自分は前述の「「ピクニック」を読んで何も感じない人間」ではないことがわかった。というか3作品とも共通のゾワゾワ感というか後味悪さを感じた。
それは3作品の情報量のせいだと思った。全て少しずつ見えてくる描写やセリフで真実に近い何かは見えるけど、それぞれで全てが明かされるわけではないからだ。
ミステリー小説でいうところの種明かし、最後に全部の情報が揃って、まるでアルトドルファーの油彩画構図みたいな神の視点に立てる感覚がこの本からは得られない。その不気味さがきっとこの3作品の面白さだと思った。
「こちらあみ子」の怖さ
最後までよくぞ読みきりました…!って自分を褒めたいくらいページをめくるのがしんどい作品だった。
あみ子のアグレッシブさって他人から見ると恐怖や腫れ物なんだろうけど、あみ子はズレてるだけで同じ人間なんだ、っていうズレのリアルさが怖かった。
例えば、知的障害や認知症の人に対して世話する側が敬意なき言葉を言いがちなところを目の当たりにしたようなえぐさ。
いわゆる健常者って何か欠けてる人を下に見て「どうせこの人にはわかりっこない」って勝手に情報遮断したり雑な態度を取ったりする。
でもあみ子みたいな人って世間とずれた軸で生きているだけだから、きっと母親のこととか生まれてくる子とかの話をちゃんとすれば伝わったと思うんだよな。
遮断された情報の中から彼女なりに筋書き立てて動いたあみ子と、それを恐怖に感じる情報・常識を持った周囲の人間たちとの負のスパイラルは本当に読んでてしんどかった。
「「ピクニック」を読んで何も感じない人間」とは
花恋では圧迫面接してくる面接官や多すぎる業務を任せてくる上司に対して「「ピクニック」を読んで何も感じない人間」という言葉が使われた。
この言葉の大事なところって、「どこに何を感じたか」だと思う。七瀬さんの話始めたところに、新人の態度に、ルミたちの七瀬さんへの気づかいに、またはラストの展開に。
花恋ありきでこの作品を語るべきではないとは思うけど、この違和感にあふれた作中ひっかかりのどこか1つに読者は立ち止まると思う。
だからこのひっかかりを全部スルーした人=違和感に気づかない人が他人を思いやれない人、ってのが花恋における「「ピクニック」を読んで何も感じない人間」なのだろうか。
1番謎だった「チズさん」
3編の中で1番短い話だからか、スコールか?みたいな勢いがあった。情報量は多いけど少ない。
私はこの作品をどう捉えたらいいのかわからないけど、この違和感とわからなさをそのまま抱えたいな、と思った。
初めての今村夏子作品を読了して
『こちらあみ子』の3編の空気感、詰め込むために同テイストとしたのか他の作品も同じような傾向があるのか、現時点ではわからないからこそすごくふわふわした気分になった。
こっから他の作品に手を出すなら片手間で読むんじゃなくてじっくり時間を取って接したい。
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