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《ジャッリカットゥ》鑑賞記録

※このnoteには盛大なネタバレを含みます

徒歩版マッドマックスなんてキャッチーなワードに惹かれて久々に映画館に行ったら、中身は全然キャッチーじゃなくて、土着キリスト教とアジア音楽好きな女に刺さりすぎる作品だった。

黙示録に始まり黙示録に終わる

インドは1つじゃない、1つの国に収まってるのが奇跡みたいな多様性の集合体だ、ってのは何度も学んでいるはずなのに偏見がなかなか抜けない。

だから作品の始まりに黙示録の一説が引用されたとき、前情報があったとはいえ驚いた。

このめちゃくちゃわかりやすい解説やパンフレットに記載があったとおり、インド=牛が神様の国、なんていうのは一部にしか当てはまらない。

だから安息日に地元の教会のミサに行って水牛を食べる、なんてルーティーンのある地域があってもおかしくない。というかたぶん現地にはそういう地域があるんだと思う。

だから水牛を売るヴァルキの店は繁盛してて、その売り物になる水牛が逃げたところからこの映画は始まる。

そして水牛をきっかけに様々なトラブルが発生したり息を吹き返したりして、おぞましいラストを迎えたのちにまた黙示録の一説が引用される。

地域によっては神扱いを受ける牛、土着文化と地元に根付き始めた村人たち、そして地域に受け入れられた土着のキリスト教…。それらがケチャのような土っぽい音楽と共に繰り広げられる映画がこの『ジャッリカットゥ』という作品だった。

※「土くさい」「土っぽい」と言葉は常に褒めとリスペクトを込めたワードとして使ってます。野生が削ぎ落とされない土の気配は魅力であり、私がインド文化に興味があるのはこの土の力が理由です。

音と声と音楽の境界

映画内でたびたび登場する音と声と音楽は、作品をより血湧き肉躍るものにしていると感じた。

音楽監督のプラシャーント・ピッライとサウンドデザインのランガナート・ラヴィによる映画サウンドは、ジャッリカットゥを映画館で見るべき理由だ。

個人的には、場面転換で使われる自然のズームと一緒に流れる音なのか声なのか音楽なのかわからないサウンドが好きだ。

もちろんケチャを彷彿とさせるような、血肉がざわめく土っぽい音楽も好きなんだけど、人智を超越した自然の力を感じるサウンドが、土地の歴史や映画のざわざわする展開を予感させて最高。

今のところサウンドトラック見つけられてないから、もし発売されてるなら欲しいな。

サウンドではないけど、クッタッチャンの取り巻きの「タータラタタッタタ」が応援上映で歌いたくなるクセ強ソングもまた聴きたい。

土着キリスト教の魅力

映画パンフレット曰く、ケーララ州の人口の19パーセントはキリスト教徒で、作品に登場してくるのはの教会だと推察している。

作中では前述のとおり、村人が安息日に水牛の肉を買って教会に行き、帰って食べるという習慣が存在していた。宗派によって安息日に食べるものは異なるとはいえ、インドで牛のと殺・販売が認められている地域が少ないことを考えると、村周辺独自のものだと考えられる。

また、仏教儀式で用いられる白檀が教会に植えられていたのも印象的だ。もともとの住民に仏教徒がいたのか、村にキリスト教が持ち込まれる際に仏教と混ざったのか、施設の人間の趣味なのか…と原因は複数考えられる。少なくとも白檀はキリスト教の教会にあると違和感のある植物だ。

個人的に、こういった独自の発展を遂げるキリスト教文化が好きだ。日本でも宣教師やキリシタンが当時の人々になじみやすくするため、言葉や建築が地元文化と融合した歴史がある。

日本でも地域に根付いたキリスト教会建築って独自の魅力があるので、教徒じゃなくてごめんなさいって思いながらもついつい心惹かれてしまう。

だから《ジャッリカットゥ》の中ではそこまで重要じゃないのかもしれないけれど、ちょいちょいでてくる土着のキリスト教の魅力がとても気になった。

牛はそこにいるだけ

心惹かれるという意味ではなく、いぶかしみとしての気になった案件。それは《ジャッリカットゥ》の副題「牛の怒り」だ。

問1:逃げた水牛は怒っていたのか。

動物が人に有害なことをする=動物の怒り、っていう理由で副題がつけられたとしたら、それはもやもやする理由だと思った。

逆に、牛が怒っているとするのであれば、次の仮説が考えられる。

・仮説1:原作に牛が怒っているという描写がある。
・仮説2:牛を黙示録の竜に見立てている、かつ黙示録の竜は怒っていると解釈する。

原作並びに黙示録にて仮説の検証はまだできていない。しかしこの仮説の少なくとも1つが正しいのであれば、牛は怒っているのかもしれない。

とはいえ、検証事項未履修で映画を観る限りでは、牛が危害を加えられそうになって逃げるのは本能だろうとしか思えなかった。そして、暴れるのを怒りと表現する理由がよくわからなかった。人間の感情を牛にそのまま当てはめるのって牛を侮ってないか?

ゆえに、牛は怒ってない、ただそこにいるだけだったと私は認識している。

なぜ人は牛を追うのか

前述に続いてもう一つの問い。

問2:なぜ人は牛を追うのか。

この問いに「牛が逃げたから」と答えてしまうのは作品後半にきちんと向き合えてないなって気がしたので、ラストの「洞窟での狩猟描写」と「牛追い以外の人間関係描写」の2点に着目して考えてみたい。

①ヒトは牛を追い続けている

終盤に出てきた、おそらくヒト(ヒトという語の使い方があってるかわからないけど)が洞窟で牛を仕留めている描写。パンフレットの最後のページにも、ヒトが猿寄りから二足歩行で今に近づいていく様子が掲載されていた。

思い出したのはラスコー洞窟の絵画。絵の中に黒い牛やら鹿やらが描かれていて、それらを本当に狩っていたかは存じ上げないけれど、少なくとも当時のヒトたちは道具を使って狩猟を行なっていた。

他の動物に対してヒトを棚上げしがちなところがあるけど、やってることは洞窟に生きてた頃と変わらなくて、現代人も野生を失っていない。だから野生的な行動にも出るし、牛も狩ろうとする、ということを洞窟の描写で表しているのだろうか。

つまり、洞窟描写から導かれる問2の答えは「ヒトが野生を失っていないから」ではないだろうか。

②集まる目的は人それぞれ

「逃げた牛を追いかけるために協力する」というのはきっかけにすぎなくて、そもそも牛を捕まえるためだけに集まった人などいないのではないだろうか。

肉屋のヴァルキは店のため、アントニはソフィへの下心、クッタッチャンはアントニへの復讐、名前が判明していない人の多くはおそらく水牛の肉ほしさ、祭状態のイベントに参加したさ、野次馬根性やその場のノリ等のためだろう。

最初は村の水牛被害を食い止めるため、牛が逃げた直後の消火活動の延長だった人が多くいたかもしれない。でもあのラストを迎える理由がそんな善的なものだったとは考えられないのだ。

今回の牛追いに限らず、人が集まる理由=開催の公式理由であるとは限らない。人が集まる口実のために集合場所が意図していない使われ方をすることがあれば、ある目的のために集う会に野心や下心をもって参加する人がいることだってざらにある。

ゆえに、人間関係描写の観点から見た問2の答えは「それぞれの目的を達成するために牛追いを利用することは都合がいいから」と考えた。

こんな良作の上映館が少ないなんて

《ジャッリカットゥ》ほど考えさせられて、かつ「いい映画体験だったな」って思える作品は、おそらく今年出てこないんじゃないかと思う。だから私の2021年ベスト映画は《ジャッリカットゥ》でほぼ確定。

だから多くの人に見てもらいたかったんだけど、上映館が少なすぎる…!これは県をまたぐ移動をしない人々にとって機会損失でしかない。

音楽の問題でスクリーンで観ることに価値があるとはいえ、最新だったり映画祭だったり何かしらの手段でより多くの人に鑑賞機会があるといいな。

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