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習慣に癒され、習慣に傷つけられる。

私の習慣は芸術を鑑賞すること。ジャンルは問わず、「それを知ったら元には戻れない」作品たちに出会うために数打てば当たるだろ戦法をとっている。

ジャンルどころか「これ嫌いだな」「これ観たら中毒になるな」って予感しかしない作品も意図的に観るから、鑑賞は栄養摂取をこえて自傷行為に近いかもしれない。

あえてこれを習慣化してる理由はすでに書いてるnoteの後半とほぼ同じ。ほぼ同じこと書いた後にそれに気づいた絶望感はすさまじかった。希少なブレない軸の1つだなーって再認識できたからまぁいいのだけど。

閑話休題。理論上の理由はこのとおりだけど、これが某T社のなぜなぜ分析だったら「まだ理由が弱い」って怒られそうだからもう少し掘り下げてみる。

1.古典を嫌いになりたくない

ワーグナー「神々の黄昏」を今年はじめて鑑賞して、それらに出てくるポリコレ的にアウトな描写に正直ドン引きした。某芸術祭をリコール騒動まで発展させる人たちはこれが不快で行動してるのか、って同情しちゃうくらいに。

でも、その不快と作品評価をイコールにしたくないから全部観た。長い目で見たら現代人の感覚だって間違ってるかもしれないし、現代の感覚で過去の作品を規定するのは、アナクロニスムというかフェアじゃない。法の不遡及がありなら概念も不遡及でありたい。

結果、嫌いな描写以上に好きなところがあって、両方とも「それを知ったら元には戻れない」作品だった。この体験を知ってるからこそ、不快を理由に古典を嫌いたくないし、嫌いなものだって最後まで鑑賞したくなる。

2. 中庸と中庸でいる人を愛してる

精神的に駅のホームの黄線外側が怖い時はもちろん好きなものだけ観るし、某局のドラマや某監督の作品にはなるべく近づかない、みたいに自分を甘やかすことはたまにある。とはいえ、それでも好き・嫌い両方のdigをやめないのは、中庸と中庸でいる人を愛しているからだと思った。

好きに対するdigの加速度が人よりえげつない自覚があるからこそ、バランスをとっていたい。真ん中からの比較が1番効率いいと思うし、決まった立ち位置があれば途中で方向転換したくなっても被害最小限で戻ってこれる。

そして何より、中庸で居続ける人たちの思考回路は深さと煌めきに満ちてて、愛さずにはいられない。かつて恩師に言われた「昔の人の視力・視覚が現代人と同じだと言いきれない(意訳)」が私の中でいつまでもキラキラしているのだ。それは、自分の感覚が他人の感覚と同じだろう、っていうバイアスに金属バットフルスイングされたような衝撃だった。

だから、私は恩師の見てるバイアスの少ない世界の景色を少しでいいから見たいし、その世界を見ている人たちをリスペクトし続けている。

3. 変わらないことへの安心感

芸術鑑賞を習慣化していることは、脱げなくなった赤い靴で踊らされてるような恐怖もあるけど、それ以上に変わらない行いへの安心感がある。芸術=子どもの安心毛布、みたいな。

世界が一変した自粛期間で、現地現物できなくなっても視覚・聴覚に関わるものは変わらず存在している。既存のサブスクに加えて、仮設の映画館とか各種配信サービスによる無観客ライヴとか。受け取り方が変わっても芸術は身近に溢れてる。

これまで通りお金を払って美しいものを享受することをやめないのは、それが自分にとって本質的に変わってないものの1つだから。そもそも自粛する前に好きでもない展覧会や映画にしょっちゅう足を運んでたのって、学生時代の延長でしかなかったし。やめるより続ける方が簡単だし、変えない方が安定はしてる。

もしかしたら前項の古典に対する思いってわりと表層意識でしかなくて、潜在的な理由は「惰性」と「安心感」なのかもしれない。

4. まとめ

ここまで書いてきたのは一般論ではなくて、あくまで個人的な意見だ。こうして書くと、古典への思い以外は自分の記憶と経験と感情的なものにすごく引っ張られてるのに我ながらゾッとする。自分に制限かけるのって自分だけじゃん?っていうのは、ミッドナイト・ゴスペル4話で言われてる話そのものですね。

だからこの習慣、すなわち芸術と密でいるこの状態は自分を幸せにも不幸にもしている。配分としてはハッピーに不幸数滴とかじゃなくて、不幸色の背景の中で自分の一部分だけ薔薇色だけど。でもそれは習慣をやめる理由にならないからほんとうに厄介。

「これまで散々続けてきたけどいつでも辞められるからな?」を胸に刻んでこれからもゆるゆる習慣を続けていこうと思う。ときに癒され、ときに傷つけられる習慣の継続も、まぁ悪いもんじゃないです。

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