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自分的ジェンダー論との付き合い方

私はジェンダー論が苦手だ。正確にいうならば、「現時点での」ジェンダー論にはなるのだけれど。とは言え、世紀末美術と向き合う中で、心身等いわゆるマジョリティ側の「女」として生きている中で、どう頑張ってもジェンダー論と関わらずに生きていくのは難しい。だから、自分の中でのジェンダー論に対する距離と視点を定めて、共存はできるようにしたいと思った。

ジェンダー論が苦手な理由は2つある。まず、現在どうしてもジェンダー論=議論の終着点にしかならないからだ。なにかしらの議論をして行く中でジェンダー論にたどり着いてしまった途端、そこからの先へ論を展開するのは難しい。きっとこれはジェンダー論が大衆化してまもないから起きている課題だと思ってるから、新概念を提唱してくれる次世代の研究者が出てくることに期待。

次に、ジェンダー要因とジェンダー以外の要因が混同する議論に疲れているからだ。いわゆる「夫婦のすれ違い」って職場でいうところの報連相を怠った結果だと思うし、性に関する刷り込みって前世代の文化の影響が大きいような気がする。本当の性による問題って、もうちょっと範囲が狭いんじゃないだろうか。その狭い部分の解決のプロセスに今の要因混同が必要だとしても、手段を目的化+感情論でややこしくしすぎに思えてしまう。

この2点のうち後者に注目して掘り下げると、ホモソーシャルと性による分業が当たり前のものとして刷り込まれてるところを少しずつ変えていけば、数世代先で解決するのではないかと思ってしまう。
逆に刷り込みが呪いとして残り続けている間は、意識改革を進めたとしても、潜在的な部分を変えられないと思っている。だから、次の世代が生きやすくなるためには何ができるだろうか、っていう問題解決手段としてジェンダー論を利用をしたい。

きっと、おかざき真理『かしましめし』のナカムラみたく、刷り込みによる執着とか価値観自覚して「社会参加」「タスク」でわりきるのが1番苦しくないんだろう。前世代で刷り込みの存在に気づいてた人は世間と戦わずに折り合いをつけていったんだろう。
それは理解しているのだけど、それだけじゃ次の世代は救えないからなー。私の中の研究者になりたがった私が、「人類の総体の一部として、人類が少しでも進歩するために自分は何を残せるか」を考えるよう訴えてくる。まぁ、この発想も刷り込みっちゃ刷り込みなのですが。

とはいえ、過去の刷り込みを受け入れて死ぬまで苦しもうなんて気はしていない。自分の世界の創造と感情受容は自分しかできないのだから、自分の感覚を全犠牲にした数十年の忍耐なんて望んでいない。だから無意識に発生するバイアスで苦しまないためには何をすべきか考えていきたい。

以上のことから、私にとってのジェンダー論は「自分と次の世代が生きやすくなるには何ができるか」っていう問いの解決ツールだ。苦手でも、利用できるものは利用してやる。議論が進んでこの感覚が矛盾するようになったとしても、それは自分の軸に従って適応してってやる。


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