《燃ゆる女の肖像》鑑賞記録

いろんな方が推薦してる《燃ゆる女の肖像》をやっと観てきた。

メアリー•カサット《桟敷席》みたい

作品全体に見られる視線のやりとり、「見る•見られる」の関係、ラストの劇場のシーンがまさにカサットの《桟敷席にて》だと思った。

《燃ゆる女の肖像》映画評に必ず出てくると言ってもいいこの「視線」というキーワード。

マリアンヌは仕事のためにエロイーズを盗み見してる時、エロイーズもまたマリアンヌの目をかいくぐってマリアンヌを見つめている。

この視線のやり取りのもどかしさはぜひ映像で観てほしい。カメラワークも役者の演技も絶妙なので。

19世紀って設定だったら好きになれた

この映画の舞台は18世紀後半とされている。つまり、前述のカサットから100年くらい離れている。

18世紀に主流だったとされているのはロココやロマン主義だ。マリアンヌの腕前が当時においてどんなものだったかというのはおいといても、これらの作品と画中画が同時代のものとは思えなかった。

この映画評ラジオでも、視聴者の1人が画中画の質の悪さを指摘していた。確かにマリアンヌの描く肌の薄塗り感、布のマチエール等々、「本当に父親の代筆でサロンに出品できたのだろうか」「マネ•セザンヌ•ピカソを観たことない人間が描いたとしていい絵なのか」と不思議に思うところがあった。

その中でも最も違和感をもたらしていたのは「筆跡がわかりやすい」ではないだろうか。
筆跡を残すというのはもっと前にベラスケスや晩年のティツィアーノがやってるから存在しなくはないのだけど、18世紀のサロンが強い時代だと「未完成作品を世間に出すなんて」って酷評されてた頃ではないだろうか。

前述の視線のやり取りだったり、役者たちの表情の演技だったりが素晴らしかった作品だったからこそ、「画中画の18世紀じゃない感」が終始ひっかかり続けたのは体験としてすごくもったいなかった。

でもこの感覚は映画《ジョジョ•ラビット》で使われる言語が英語だったようなものであって、その違和感だけで《燃ゆる女の肖像》を記憶から消し去りたくないなと思ったので「これは19世紀!マネがでてきてるころ!」って思い込むことにした。

映画館で体験できてよかった

前述の好きなところ好きになれなかったところは、大画面で享受できたから気づけたのだろうと思うと、映画館で観てよかった。

去年に引き続き、「本当に面白い予感がする作品だけ映画館に行く。それで逃した作品は残念だけどしょうがない。」のスタンスで映画を楽しもうと思っているから、そこで厳選したうちの1つに《燃ゆる女の肖像》を入れたことに後悔はない。

次に足を運ぶ作品も面白いといいな。

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