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友だち作りが難しくなっちゃったのは



月に一度くらい友人たちと集まる。
みんな高校時代の部活の仲間だ。
大人になると、どうして友だちができなくなっちゃうのかな。


残念ながら私は「ほんと。なんでだろうねえ…」と嘆息して終われないしつこい性格だ。
「なぜだ、どうしてだ、なにゆえに、大人の友だち作りはハードルがギュンと跳ね上がるのだ!!!」


色々と(心理学とか)調べたり自分の就職以後の経験を振り返ってみるに、「だれかと同じ空間や時間を過ごすことが減るから」というのが結論らしい。



高校生まではクラスや部活といった、毎日毎時間を共に過ごすことで友だちと自然に親しさが増していくシステムがある。
大学生でクラスという概念がなくなり、心理学でいう「単純接触効果」の恩恵に与れなくなる。


それから、大学生以後の人間関係って、どうしても「ペルソナ」感が出てしまう。
異性の目も気になる。社会人としてのマナーも覚えさせられる。仮面をしっかりかぶっておくんだぞ。



特に仕事では「有能か無能か、ざっといずざくえすちょん」といった感じがある。
いかに「私には能力があります。私は組織に貢献できる人間です」と見せれるかが、組織内でのキャラや立ち回りを決めるだけでなく、時には出世や昇給の鍵になってたりもする。


つまりは、ありのーままのーすがた を見せないのが大人の条件だったりする。
心を開かずに心を開いているように見せる技術。



ていうか、だれかに向けて心を開くには、社会人はそもそもが忙しすぎるんじゃないかしら。


大人の友だち


本心を見せないのが大人だから、じゃあ友だちができないかというと、そういうことでもないのかなと思ったりもする。
大人には大人の友だちの在り方というか、学生時代とは違った人との付き合い方もあるんじゃないかと。


それがどういうものかといえば、普段は仮面を被った人間同士が、ふと仮面を外す瞬間に心が通じ合うような、そういう楽しみ方なのではなかろうか。
それも意識して自分の手で仮面を取るのではなくて、何かについて語っているうちにポロッと落ちて、当人はそれに気がついていないような。


私ごとながら、まあ、このブログはぜんぶ私の話しかないのだけど、英会話スクールに通おうと思って体験レッスンに行ってきた。
レベル判定のためにネイティブの先生と15分弱くらいの個人面談をして、受付の人から説明を受けた。
で、気がついたら1時間くらい喋ってた(私じゃなくて受付の人が)、という話。


初めは事務的に、淡々と説明をしてもらって、私も「振替は」とか「授業の進め方は」みたいな質問をしていた。
ところが途中から「英会話は予習より復習をしっかりやったほうがいい」「クロアチアのカフェがすごい」「ヨーロッパには若いうちに行きなさい」と話がとっちらかっていく。



そうやっていつの間にか1時間くらい話し込んで、「あ、そういえば、見積書。いまから作りますね」という感じ。


話が面白い人は「狂うほど好きなもの」を持っている


私はちょっと「マッド(mad)」だったり「マニア」な人の話がけっこう好きでそういう人に会うチャンスがあるとついついあれこれ聞いてしまう。
「〇〇狂」のレベルまで何かを追求した人の話って面白い。
話の内容も面白いけど、それ以上に話している「その人」が見えるような気がする。


人間って、自分の好きなものや興味のあるものについて語っているうちに、ふと「素」が見えるものなんじゃないかと思う。
その人の本当の「声」というのは、出そうと思って出すものではなくて、硬い仮面の隙間からぽろっとこぼれ出るものなのだと思う。


個性、それは「自分らしさ」を「出す」こと。
ではない、と私は思っている。
個性とは、自分では必死に隠そうとしているのに、それでも隠しきれずに溢れ出てきてしまうもの。


個性というのは、結局のところ、好きなものやことについて語っているうちにボロボロとこぼれ出てくるもので、だからちょっと「狂ってる」くらいのものがないと、人間というのは面白くないんじゃないか。


話していて面白いもっと聞きたいと思う人と、退屈な人がいる。
好きなものがある人と、そうでない人の差だと思う。
別れた後に「楽しいのは楽しかったけど、なんか時間を無駄にした感がすごい」と思ってしまう人は、だいたいが「狂えるほど好きなもの」がない人だったと気がついた。


有益な情報をくれるとか、仕事に繋がるとか、そんなことではなくて。
お金持ちでも、仕事ができても、退屈な人は退屈なんだと思う。
(お金がない上に退屈な人は掃いて捨てるほどいるけどそれじゃあライフが0じゃん)


子供の頃って、誰かが夢中になって何かをやっていると、「ねえ、それ、ちょっとやらせてよ」みたいに仲間が集まってくる。
学校には「あの子があんなに熱中しちゃうものって、いったいなんなんだ?」と周りの子どもたちの興味を掻き立てる子供が、ひとりはいる。
私はトム・ソーヤーのペンキ塗り理論と呼んでいる。


大人になって友だちができなくなる本当の理由は、自分には「狂っちゃうほど好きなもの」がないからなのかな、と思ってみる。
私は人が寄ってくるほど何かに夢中になれていないんじゃないか、って。


狂う方向によっては社会がとんでもなく生きづらく感じてしまうからなかなか難しいものだね、そういう特に意味のない話をしたくなった。


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