見出し画像

泣いたり笑ったりするのが下手になったら、生きる意味を問うてしまったら。


揺れない命


子どもという生物は、大人からすれば理解に苦しむようなちょっとしたことで笑ったり泣いたりする。「なんでそんなことで?」とか、「それ何がおもろいねん」みたいな、日常のささやかな出来事に対していちいち大声上げたり笑い転げたり、それからたまに喧嘩して怒ったり泣いてみたり。

思えば大人になるというのは、つまり「笑ったり泣いたりするのが下手になる」ための訓練を重ねることのような気もする


いい歳したおっさんが街中でいきなり笑い出すとまではいかなくても、たとえば職場の隣の席の同僚が些細なことで涙を流し始めたら、「だいじょうぶ?」と一応は心配しているそぶりを見せながらも、「なんなんだ、この人は」と内心では訝しがられるに違いない。


感情をコントロールすること、それが大人として認められるための条件だ。感情に振り回されたり、突発的に感情を露わにする人間は「情緒不安定」「ヒステリー」「地雷」と判定され、組織の中では要注意人物として腫れ物に触るような扱いを受けることになる。


そうならないように、僕らは小さい頃から感情を制御する訓練を強いられる。「人前で泣いてはいけません」に始まり、「嬉しいことがあったからといって、はしゃぎ過ぎるのはみっともない」と教えられ、やがて社会に出る頃には「怒りを感じたら6秒間我慢しましょう」「不快な感情が湧き起こったら一度席を外すのが良いです」と、突発的な感情の対処法を学び、最後は「その時々の感情や思いつきで行動せずに、一貫性のある合理的思考によって問題解決する能力」を立派に身につけることを求められる。


感情的にならないこと、感情に振り回されないこと、感情を支配することができること。社会で(あるいは仕事や職業で)評価されるのは、そういう人間だ。この世の中に「アンガーマネジメント」やら「マインドフルネス」やら「〇〇式最強のメンタル」などという、感情を制御するための方法論を説いた書籍が溢れかえっているのが何よりの証拠だろう。


いつしか僕はそうやって「自分を律する」ことに慣れきってしまった。人前では感情の起伏を抑えてなるべく穏やかであり続け、怒りや悲しみのような負の感情は見せないように努めてきて、その結果としてまずまず「問題ない人物」と評価されてきたのだと思う。


少なくとも、「あいつは急にキレるから近寄るな」「悪いやつじゃないんだけど、たまに面倒くさいから気をつけた方がいい」とは、思われていないのではないかと思う。あるとすれば「あの人、何を考えているかよくわからない」だろうか。


そして、あるとき僕はふと気がついた。泣くことも笑うことも下手くそになってしまった自分に。悲しいと思ってもうまく涙は出てこず、嬉しいという気持ちの裏側にはいつも冷たい思考が濡れ落ち葉のようにピッタリと張り付いている。


これは何に対して悲しいのだろう? どこに泣く理由があるのだろう? 良いことは続かないはずだ、手放しで喜ばずに次の不運に備えなければ……そうやって理屈ばかりが先行して、いつしか感情の振れ幅を小さくすることに頭を使っているうちに、心の奥底から湧き上がる感情の存在を忘れてしまったのだ。


感情を出すのは恥ずべきこと


僕はいまだに、人前で過度に感情を表現することは恥ずかしい、という認識が拭えない。それは幼少期からの教育だったり、あるいは何かしらの体験から獲得した価値観なのか、それとも生まれつきの性格ゆえなのか、はたまたそれらの混合物なのか、原因についてはよくわからない。


ひとつだけ言えることは、「感情的になると周りの人を不快にしてしまう(場合がある)」ということを幼い頃から理解していて、「自分の(感情の)せいで他人を嫌な気分にしてはいけない」と思い込んでいたということだ。


もちろん、感情を出したからといって必ず周囲を不愉快にすると決まっているわけではない。でも、たとえ確率が10%だとしても、自分にとっては「0か1」でしかない。


例えは悪いけど、交通事故と同じだ。「へえ、普通に道を歩いていて自動車に轢かれる確率なんて、ほんの数%しかないのに、不運だったねえ」と言われたって、感じる痛みは紛うことなく「100%の痛み」だ。起きるか、起きないか。実際に起きてしまった不幸には確率論などなんの慰めにもならない。


僕は典型的な「リスク回避型」の考え方をする人間で、そこに1%でも失敗の危険が残っているのなら、徹底的に潰し切るか、もうこれ以上は失敗の可能性を減らせない、ということろまで突き詰めないと行動に移したくない。


これはあくまで極論で、現実には見切り発車をするしかなかったり、フィフティー・フィフティーのところで勝負せざるを得ないのがほとんどだけど、理想としては「リスクが最小限でなければ賭けに出ない」ことを好んでいる。


少し話が逸れたけど、要するに「わずかでも周囲を不快にする可能性がある以上、自分の感情は表にしないのが得策」という合理的思考の結果、僕は感情の出し方をよく知らないまま大人になってしまい、感情を表現することに恥じらいを感じずにはいられなくなってしまったのだ。


「楽しい」は思っているよりも難しい


どれだけ感情表現が下手だとしても、やはり僕だって人間なので、下手なりに感情を出す場面はある。好きなアーティストのライブだったりポケモンのイベントだったり、スポーツ観戦の場が該当する。


どこかの記事で書いた気がするけど、ポケモンの世界大会に現地参加して盛り上がったことは本当に楽しかったし、先日ラグビー日本代表対アルゼンチン代表の試合をパブリックビューイングで観戦した時も心の底から熱くなって応援した。BUMPのライブに行けば、割と熱心に跳ねたり歌ったりする。


残念なことにラグビー日本代表は強豪アルゼンチン代表の壁に阻まれて予選プール敗退となってしまったけど、その帰り道で僕はひとり熱戦の後に訪れる昂揚感に浸りながら、「嬉しいとか喜ぶっていうのは、いいものだな」と感じて地下鉄に揺られていた。日本代表のチャンスに会場全体で盛り上がったり、トライを決めた時に他のお客さんとハイタッチをして喜びを分かち合ったりしたことが、とても心地よく感じられたのだ。


そして「人間っていうのは、もっと嬉しくなったり喜んだり、楽しんで笑ったりするべき生き物なんじゃないか?」とも思った。僕は科学的知識には乏しいのでよくわからないけれど、そうやって笑ったり喜んだりすると、身体は生き生きとするもので、「生きている、ってこういうことなんだな」と感じられる。たぶん、笑ったり楽しいと思うことで、何かそういう「っかあああああ〜生きてるわ〜!」ホルモン・成分が体内で分泌されるのではないだろうか。



でも、今の世の中って、どちらかといえば「良いことよりも悪いことばかり溢れかえっている”ように見える”」ように(ややこしい文章だな)コントロールされている気がする。



嘘だと思うなら、新聞や報道番組を見てみれば一目瞭然だろう。良いことも少しくらいは取り扱われているけど、目も当てられない事件やろくでもない不祥事や複雑怪奇な政治経済情勢に関するニュースが圧倒的な分量を占めているはずだ。なんだか「世界には今日もたくさんの不幸な出来事がありました」とでも言われているような気分になる。


そうなのだ。僕は地下鉄の中でひとりで気がついてしまった(それにしてもよく色々なことに気がつくな)。「もっと楽しく、嬉しく、笑って、喜ぶこと」というのは、思っているよりも難しいじゃねえか、と。むしろ、この世界は人間が鬱々として不機嫌に過ごし、「ああ、今日もなーんもない一日だったな」と呟くために仕組まれているのではないかとさえ勘繰ってしまう。


遊びの才能


これはたしか、詩人の中原中也が言っていたことだったと思うけど、子どもという生物は「遊ぶ天才」、つまり「楽しんだり喜んだりする才能を持っている」のだ。たった20分の休み時間でさえ、校庭に駆け出して鬼ごっこやドッジボールに熱中したり、教室で仲の良い友だちとおしゃべりに夢中になったり、折り紙やピアノなどに励むなど、わずかな時間を待ち侘びて楽しく過ごすことができるのだから。


それに比べれば、大人というのはなんと味気ない生き物なのだろう。休み時間はだれとも話さずにさっさと食事を済ませ、なんとなくスマホをいじったり、会社を出たら動画や漫画を見て一人で過ごす。そこには子どものような期待や楽しみはない。もちろん、「毎週月曜日の少年ジャンプしか生きがいがないんじゃ」、「アニメ(ドラマ)の続きを見ることだけが楽しみなの!」と言われるかもしれないし、その気持ちも理解はできるけれど、そういうのってかなり受動的な楽しさだよな、と思ってしまう。


ただ幸せを感じること(幸せになることでない)が、どうしてこんなにも難しいのかといえば、それは大人が「遊び」の持つ力を軽んじて蔑ろにし、「遊ぶ」能力を鍛える訓練を怠ってきた結果、子どものように何かに夢中になる仕方を忘れてしまったからなのだろう。


スポーツや芸術、そのほかのクリエイティブな活動に携わる人が他の人々と決定的に異なるのは、その人たちの「遊ぶ能力」の高さにあると僕は考えている。


あらゆる分野の第一線で活躍している人々は努力を努力と感じていない、とはよく言われることだけど、それってほとんど子どもの「遊び」の延長線上にあることを意味しているのではないだろうか。つまり、「それをすることが楽しいから、気がついたら夢中になっている」だけであって、合理的思考や損得勘定を超えたところで動いているように思われるのだ。


もちろん、楽しいことばかりではないのは間違いない。プロとしてお金をもらってやる以上は、対価に見合う成果を出すプレッシャーにもさらされ、常に技術や競技力の向上に努める責任があり、時には怪我や病気とも戦わなければならないこともある。でも、様々な困難や試練に向き合いながらも、心の一番深いところでは「これをやっていると楽しい」という「遊びの感覚」があるのではないだろうか。


大人の「遊び」=「贈与」


では、クリエイティブな活動とはほぼ無縁で、単調で退屈な日々を送る多くの人々は、どうすれば「もっと楽しく、喜んだり、笑ったりすること」ができるのだろうか? つまり、それほど好きでもない、やりたいわけでもない、はっきりいって「お金のためだけ」の仕事をする一般の大多数の大人は、日々の中に幸せを感じることはできないのだろうか?


いやあ、これは本当に難しい問題だと思う。だって、スポーツの試合やライブは毎日あるわけではないし、というか毎日あったら飽きてしまうだろう。どんな刺激にも慣れてしまうのが人間だから、そういった派手なイベントを追い求め続けた先に待ち受けるのは、感覚が麻痺した紛い物の昂揚感か、あるいは虚無感でしかないはずだ。


別に幸福感なんてなくてもいい、淡々と日々を暮らして、普通に生きられればそれでいい。そういう考えの人もいるだろうし、実をいえば僕だってその考え方をする人間の一人だ。波風立てず、穏やかな日常に憧れるタイプ。だから、その人生を継続できているのならば、無理に幸せなど追い求めなくてもいいのではないか、と思う。強欲で周りを巻き込んで迷惑をかけるよりは、凪のように落ち着いた人物を僕は尊重したい。


ところが神様は時に残酷で、そんなふうに慎ましく生きたいと願う人をして、ある時ふと「何か物足りない」と感じさせるのだ。そして、その中の数%は「生きている意味って何?」と問い始め、苦しみの沼の中に足を突っ込んでしまう人もいる。その人はやがて「どうして普通の人生を送りたいだけなのに、生きる意味なんて考えてしまうのだろう」と終わりのない堂々巡りに突入することになる。


僕もその一人で、僕の20代はまさに「人間はなんで生きるんだろう?」と問い続けるだけの、精神的には苦しみしかない時代だった(である)。毎日が毎日の繰り返しで、ただお金を稼ぐために、つまり生きるためだけに働く、その虚しさにどうしようもなく心を蝕まれた。そして孤独と孤立のうちに、いつしか生きることの無意味さに支配され、無気力になっていった。


そう、僕は20代という貴重な時間を無為のうちに過ごし、生きる意味という答えなどあるはずないと分かりきっている問題に足首を掴まれ、気がつけば多くの可能性を失っていた。他の同年代がキャリアを積み重ね、人脈や交友関係を広げ、恋人を作ったり家庭を持ったりしているその間に、僕はただ一人で「生きるのしょうもねえ」「もう疲れたわ」「十分頑張ったよな」と、真っ白な雲が漂う青空に向かって声に出さずに呟いていたのだ。


終わりなどないように思えるほど長い、無為にして無気力でひとりぼっちの20代が終盤に差し掛かったいまでも、僕の心の奥底では生きることに対する虚無感が通奏低音のように響いている。それでも先にも書いた通り、やっとというかようやくというか、楽しんだり喜んだり、そういう感情を味わうことが生きるためには必要なんだなと、理屈ではなく体感としてわかるようになったのは、ここ最近のことだ。


そして、喜びとか楽しみとか嬉しいというのは、必ずしもイベントで盛り上がったり声を上げて騒ぐことだけではない、ということを教えてくれたのは、久しぶりに再会した友人たちだった。


僕は大学時代の部活で関わっていた何人かの友人が結婚したことを知って、心の底から嬉しいと感じることができた。ともに学生時代を過ごし、いまでもそれぞれの苦しみや悩みを抱えながら生きている友人たちが、この先も一緒に歩んでいきたいとまで思えるパートナーに出会えたことに対して、心から素晴らしくありがたいことだと思えた。後から知ったため結婚祝いもしてあげられなかったので、代わりに得意の(?)絵とメッセージを添えて簡単なギフトをプレゼントしたら、ずいぶんと喜んでくれてとても嬉しかった。


わざわざ写真を撮ってLINEに送ってくれた
下手な絵もたまには喜んでもらえるのかも?


あるいは、なんでもない日々の中にも、小さくて微かな、でも確かな幸福が存在することを教えてくれたのは、顔も名前も知らない、そしてこの先二度と会うこともないだろう人々だった。


ラグビーを観戦しにいった日、僕の前を若い男女のカップルが歩いていて、男性のポケットから紙のようなものが落ちた。レシートかな、と放っておこうかと思ったのだけど、気になって確認してみたら駐車券で、慌てて追いかけて渡してあげた。「え、なんですか? うわ、駐車券だ、マジでありがとうございます! 危なかったあ〜」と胸を撫で下ろす彼をみて、僕は自分が1組のカップルの破局の危機を救い、もしかすると日本の少子化の解決に貢献した救世主になった気分だった(大袈裟だな)。


そう、人間はイベントやお祭りがなくても、だれかのために行為することで幸福を感じることができる。マザー・テレサだったと思うけど、「偉大なことをするのではなく、偉大な愛で小さなことをするのです」という言葉は、大人になるほどその正しさを理解できるようになった。愛、というと大仰に聞こえて、普段使いにはちょっと恥ずかしいけど、日本には便利な言葉があって、他者への思いやりや優しさのことを「贈与」と呼ぶ。


案外、「遊び」を伸ばしていったその先は「贈与」に繋がっていて、そのまたもう少し先には「幸福」が待っているのかもしれない。僕にとっては「下手の横好き」にしか過ぎなかったお絵描きでも、ちょっとした工夫でだれかに「贈り物」として分け与えることができる。大谷さんの真似事で偽善者ぶってゴミを拾ったつもりが、思いがけず人類の滅亡を阻止する大事業になることだってある(赤の他人によるセカイ系……?)。


考えてみれば、スポーツだって音楽だってその他ものもろの活動だって、結局は「贈与」の一環に含まれている。クリエイターが発した作品を受け取るだれかがいなければ、その作品から何かを、喜びや幸せを感じるだれかがいなければ、創造という行為にはほとんど何の意味もなく、クリエイターは活動を続けることはできないだろうから。


「遊び」の先に「贈与」が、そして「幸福」があると述べたけど、クリエイターというのはたまたまその人の「遊び」が「普通よりは多数の人々」にとっての「幸福」になるというだけで、本質的なところではクリエイターでない多くの一般の人々と、つまり駐車券を拾ってカップルの破局を未然に防ぐ行為と、何ら変わらないのかもしれない。


幸せとは何か?


先の大学時代の友人たちの中で、結婚した3人のうち2人は女子で1人は男子だった。僕は幸か不幸か既婚者の3人に囲まれたテーブルになり、話を聞くことができた。彼女たちは結婚式を行わなかったそうで、式を挙げたもう一人の男子に「なんで式をやりたいと思ったの?」と尋ねていた。それに答えた彼の言葉がとても印象に残っている。


「だってさ、あんなにたくさんの人から、おめでとうって言ってもらったり、祝ってもらえることって、たぶんもうないわけじゃん? いや、俺が祝って欲しいんじゃなくてさ、うーんと、そのさ、あのお……」


言葉に詰まってしまった彼を救うために、僕が「自分の大切な人を、ね」と助け舟を出すと、彼は「そう! そうなんだよ、やっぱり、大切な人が色んな人にお祝いされてるところ見たいじゃん? だから面倒だけど式挙げたんだよ」と興奮気味に答えた。


大学時代に英語のプレゼンテーションで出された「What is the meaning of Happiness? =幸せとは何か」という課題に「そんなもん、わかるわけねえだろ!」と頭を抱えてネイティブの教員に文句を垂れていたあいつが、こんな風に大人になったんだな、とすごく感慨深いものがあった。


よく言われるけれど、、幸せというのは誰かから与えられるものではない。僕はそれに付け加えて、幸せというのは「自分がなるためのものではない」とも思う。では、幸せとはなんぞや、と問われれば、「だれかに分け与えるもの」「自分でないだれかに感じてもらうもの」と答えるだろう。


思いやりや優しさには見返りや感謝を求めてはいけない、と言ったのはイエス様だったかお釈迦様だったかアッラーだったか俺だったか、それともだれだったかよく知らないけれど、僕はそれは嘘なんじゃないかと思う。見返りだって感謝だって、目一杯求めていいのではないだろうか。


自分がだれかに優しさなり心遣いなりを「分け与える」ことができたのならば、それによってその人を「幸福」に導くことができたならば、自分だってその返礼品としての「幸福」を感じてもいいのではないだろうか。何も澄ました顔で平然としていなくたって、だれかに与えた幸せと同じかそれ以上に、贈与がもたらす幸福を噛み締めても、それを罪とか偽善とか呼ぶのは間違っているはずだ。


幸せそうに笑えるひともいる


最後になるけれど、僕が知っている「幸せそうに笑えるひと」の話を少しだけする。


だいぶ前のことだけど、大学時代のアルバイト先の友人からライブに誘われて同行することになった。僕はあまり知らないアーティストだったけど、というか知らないアーティストだからこそ行ってみることにした。だれかに誘われるときくらいしか、自分の行動範囲を広げるチャンスはないからだ。端的に言えば、僕はニートで暇人だったのだ(ニートになってから色々な人からの誘いが増えた)。


一緒に行った友人はその海外アーティストの大ファンで、来日したチャンスにぜひともライブに行ってみたかったそうだ。好きなアーティストのライブに初めて行くあの体験をしたことがある人にはわかると思うけれど、ライブ後には「ああ、もうこれで死んでもいいや」という幸福感がある。その友人も終わった後に同じことを言っていて、とにかく幸せそうに見えた。


帰りの地下鉄の中でふと沈黙が訪れた瞬間に、横に座っている友人の顔を見ると、子供みたいに満足そうに、幸せそうに笑っていた。僕は「人間ってこんな風に幸せそうに笑えるものなんだ?」と少し驚いた。それから、アーティストはステージの上からファンの人たちのこの笑顔を見るために頑張っているんだな、と自然に納得できた。


笑うことも泣くことも下手になった。生きる意味の問いにがんじがらめにされ、孤独と虚しさに心を蝕まれた。20代というのは一般的に、仕事や交流関係、それから家庭を持つことを通じて社会に自分を位置付け繋ぎ止めるための期間であり、人生観や生きる意味について考えるのは30代後半以降の課題だとされている。僕は好んでではないにしろ、踏むべき段階をすっ飛ばしてしまったみたいだった。


キャリアはボロボロ、交友関係も学生時代のままで、異性と交際したことすらないまま、僕は20代を棒に振って終えようとしている。恐怖や不安がないといえばまったくの嘘になる。自分が人生の貴重な時期を無駄に過ごし、そしてこれからもその続きを歩まなければならないことに、いささかがっかりしている部分もある。後悔はないけれど、ええ? まだ続くんですか、もう終わりにしていいんじゃない? というのが正直なところだ。


それでも、と僕は思うようになった。別に生きていたいとは思わない。自分に何かが出来るとも、何かの役に立てるとも、幸せな人生を送れるとも思わない。ただ、もう少しだけ、友人たちの成長や成熟を見届け、できることなら幸せを祝福してあげたいと願っている。そして、いつの日にか彼らが「生きる意味ってなんだ?」と沼に片足を突っ込みかけたなら、「おい、そこにはあまり近寄るな」と引き留めてあげたい。それから、見も知らないだれかの助けになれるのなら。そう考えて、まだ死ぬ時ではないのかもしれないな、と思っている。


思っているだけ、かもしれないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?