ライブに行って陰の曲にあてられて倒れた話。

2021年12月29日記載

先日、音声アプリで知り合ったバイオリン弾き語り奏者という方の演奏を聴きに行った。
正直この方が目当てだったわけではなく、コラボで出演される方のほうを生で観てみたいと思って足を運んだ。

バイオリン弾き語りの方をAさんとすると、Aさんはご自身のMCで「私は前座です」と言っていた。
そのあとに出演される方が師匠となる方とのこと。

Aさんの演奏は以前、音声アプリ内で聴き、その後SNSのライブ配信で聴いたことがあって、その際はアップテンポではないけれど、静かな曲調というか民族っぽい雰囲気とか世界観があっていいなと思っていた。それにバイオリンの弾き語りというコンセプトも聞いたことがなくておもしろいな、と。

Aさんの演奏を聴きながらアルコールを一杯飲んでいた。
当日は仕事帰りということもあって多少疲れてもいたし、運気の流れ的にもメンタルの不調を抱え込みやすい流れだったとの事で。
と、いうことが影響したのかどうかは分からないが、Aさんの演奏を聴いているにつれ、体調がみるみるおかしくなった。

聴いている最中は、絶えず、少し前に私をひどく罵倒した友人のことが頭に浮かび、その思考を払拭しようとしても何度も纏わりつかれ、メンタルがくだると同時にアナフィラキシーを起こして倒れた時と同じような体感感覚が次第に強くなってきた。

「あ、これは意識を飛ばすパターンだ」と思い、なんとか自我を手放さないように、態勢を変えたりベルトを緩めたり水を飲んだりして、早くAさんの演奏が終わってくれないかと耐えていた。目当ての方の演奏を聴くより前に帰った方がいいかと何度も立ち上がろうとしたが、この陰の状態のまま帰っても陰を抱え続けなければいけないしと思い、帰るのを迷っていた。

もうだめだ倒れる、と思った時にAさんの演奏はやっと終わった。すごく長かった。あの曲調をあの尺やるのはキツくないかな。まあ、あの沈んだ空気が好きな人は聴き続けられるんだろうけど。生のエネルギーを全部吸い取っていく空気感が本当にツラかった。

ライブ終了後、そのまま帰っても良かったんだけど、Aさんにチケットを取ってもらっていたので一言ご挨拶するべきかなと思い、声をかけさせていただいた。今回のライブの個人的な意見を言っていいものかどうかをすごく悩んだけれど、Aさん自身はどういう心情で発信されているのだろうか、という好奇心が勝ってしまって、大変失礼極まりないなと思いつつも体調が悪くなったということをやんわり伝え、Aさんの考えを聞いてみた。

私はAさんが最後の演奏曲が3.11の被災者を思い作成された曲だと言われていたので、レクイエムを意識して作られたのかなと思った。レクイエムだとしたら、この陽の気や生気を吸い取られるような曲も納得がいくなあという私なりの結論だった。

しかし、Aさん曰く、生きるための曲だと。演奏者ご自身は演奏に対して、恨みつらみ憎しみを乗せないようにニュートラルな状態でいることを務めていると。
私が聴いている最中に恨みつらみ憎しみが沸いて沸いてしょうがなくてキツかったという話をしたら、「それはあなたがそう思っていただけ。私の曲は鏡なので。明るい気持ちでいれば明るい気持ちが反映されるし、暗い気持ちでいれば暗い気持ちが反映される。私の演奏を聴いて癒されると言ってくださる人の方が多い。」と言われた。

確かに私が持っているものが浮いて出てきたんだろうけど、「癒されるというか波長が同じ人が共鳴すれば、それは癒されてると思うのかもなあ」と感じた。あの曲と波長が合う人というのは、生きることに前向きになれない状態の人、その場で立ちすくんでいる人が私のイメージの中に沸いてきていたけれど。個々人のキャッチの仕方だからなあ。

それと「私の曲は癒されると言われています」と断言してくる感じとか、以前、音声アプリ内で曲を聴いたと伝えると「私はそのアプリ内で弾いたことがありません。どの曲ですか?その曲はそのアプリ内で弾いたことがありません。」と断固として自分が弾いたことを認めなかったところとか、ちょっと「う」と思った。そのこだわりは何ですか?
私は音声アプリ内で曲を直に聴いたから、わざわざライブ配信も聴いたし、こうしてライブにも足を運んだのですが。どんな演奏かも分からない人のものをわざわざ別のアプリをまたいでまで聴きに行くほどじゃないんだよなあ。
それを嘘ついて何か私に得することでもありますか。ご自身の理想のコンセプトをガチガチに守っている感じが他者を拒否していて、その雰囲気が曲に乗ってると感じるんですけど。それに「その曲じゃありません」ってドヤられたけど、知らんがな~って思った。あなたの曲の全てとタイトルの全てになんて興味持ってないです。正直こういうメンタルの人、今の私にはとても気持ち悪かった。自分が世界の中心なんですね。あなたの世界ではあなたがもちろん中心ですけど、私の世界であなたは中心じゃないんですよ。

演奏中の恍惚とした表情も、どのようなメンタル状態にギアを合わせればその顔になるのか分かるので、Aさんのいう「ニュートラルな」感じというのは言わんとしている部分は分かる。ただやはり自身がニュートラル、に合わせているつもりでも、Aさん自身の心の闇や傷がクリアになっているわけではなく、Aさんが人生で割と何か抱えてる状態の人、というのは透けて見えているので、ニュートラルにギアを入れると病みと傷の垂れ流しになってるんだよなあ。ご本人的にはそうじゃないと言い張っているので、ご本人の理想は「鏡」なんだろうけど。

もしくは。ご本人の言う通りニュートラルだったとして、鏡だったとして。その鏡は水鏡なのではないか、というもう一つの考察。
しかし自動車でもそうだけど、ニュートラルという状態は「少しずつ前に進んでいる状態」だったりする。人間、というか生き物も、何もしない状態=止まっている、ではなく、何もしない状態=自動的に前に進まされている状態、ではないのかなと思った。
だとすると、Aさんの発しているエネルギーは「止」のエネルギーだったので、自然に動いているものを止めるという力が入っていると思う。自然の流れに逆らって止めているのだ。なので、あの時、私はエネルギーが止められて、その時持っていた感情がその場に溜まり自分のエネルギーに溺れたのだろうな、と。なんにせよ感じたのは「死神のような曲」というものだ。生を殺してくるなぁって。
癒されると評している人たちは、ご自身の心がすでに死んでいるのだろうと。

Aさんの演奏の空気感が、今の私にどうにも居心地の悪かったものであったが、もう帰ろうとしていたところにAさんの演奏は終わり、メイン出演者の方へとバトンが渡された。メイン出演者の方々をBさんら、とすると、本当に面白いことに、うなだれてテーブルに伏すくらい具合の悪かった私が、Bさんらのコラボが始まり、最初のジャーンという一音で体中の負のエネルギーがスッと消えました。

瞬間に確信しました。「あ、もう大丈夫だ」って。
その後、Bさんらの演奏が進むにつて演者の1人が「ハッ!!」と掛け声を入れるシーンがあった。その後のMCで、その掛け声はリハーサルではなかったものだそうで、声を出した人曰く「空気を払いたかった」と。私はそれを聞いてて、あぁ、やっぱりな、と少し安心した。あの纏わりつく陰の空気を声で払いたくなってたのは私だけじゃなかったんだな、と。そして、その方が払ってくれたので堰き止められていたエネルギーが動けた。

そんな不思議な体験をしたライブでした。
私のスピリチュアルな感性が高まってきていると感じてる。今までみたいに「痛い子だと思われるから気のせいにしよう」としてきたけど、受け入れてみようかなと思っている。自分では勘が働くことに関して確信していた部分はあるにもかかわらず、自分で抑えてきていた。そういう「抑える」行為ももうしなくていいかな、と。

最後に。AさんからのDMでライブ配信も観に行ったし、ライブにも足を運んだが、帰宅後に一言もないんだなぁ、というのも「そんなもんなんだな」と思ってしまった。もちろん挨拶をすることが必須ではないことは分かっているけど、こうして人は離れていくなということを改めて感じた。たかだか数人か多くても十数人にDMをするのがそんなに難しいことだろうか?Aさんがどうのということではなく、今までの私もそういった人へのケアが足りていなかったことを思い、どうしたら相手に気持ちよく私と関係を持とうと思ってもらえるのかについて改めて考えた。Aさんに関しては恐らく私が次のライブに来ても困るだろうから、例え他の方に挨拶してたとしても私には送らなかったんだろうけど。

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