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30Y-4D

昔の話。
ヨルシカの「八月、某、月明かり」という曲を初めて聴いていた。
『人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った』というフレーズがひどく印象に残った。27歳という年齢に何かあるのだろうか、当時の自分は27クラブの存在を知らなかった。25歳だった。

アーケードの景色、小さな部屋。シューゲイザーの春を過ごした。
26歳。

27歳、28歳、何もできずに時間は過ぎた。
27クラブにも入り損ねて、あれからずっと自分は生き続けている。もうすぐ30になる。



再来週、横浜にテニスをしに行く予定がある。横浜といっても、横浜駅からも電車で30分くらいかかるので、この地の果てからは割と遠い。横浜は広い。
電車で行くと遠いが、車で行けば案外近いのでは?とGoogle mapでルートを調べてみる。ポイントは首都高を使うかどうか。これに尽きる。

最近はシューゲイザーの春と自分で呼んでいる2020年の春、外出自粛令を無視して都内に車で向かっていた頃、自分で首都高を運転するなんて初めてだったので、割と命の危険を感じながら運転していた。何回か合流でぶつかりかけた気がする。当時、外出自粛令が出てるだけあって、首都高はかなり空いていて快適だったというのに。
たまに、あの時どんなルートを通ったのだろう、と意味の無いことを調べてみたりする。ジャンクションを正しく乗り継ぐにはどの車線を通っていればいいか、それだけを考えるのに必死で景色なんてほとんど見れていなかったはずだが、断片的に憶えている風景がある。

墨田川沿いの高架を抜ける。金色のオブジェ、浅草寺の赤がわずかに見えた。天気が悪いか、あるいは夜だった。終わってしまったような世界で不気味な光を放つスカイツリーが、なんだか憎らし気に見えていた。

それからもっと断片的だが、お台場の辺りを通っていたこともあった気がする。有明のコートを過ぎ、今は無きZepp Tokyoを横目に抜ける。地下に入る時、2車線が二つに別れるようにして間に橋桁が現れるのは果たしてその道だったか。ぶつかりそうだな、といつも少し怖かった。フジテレビを見上げながら通ったような記憶がある。
浦安とか舞浜の辺りを横目に見ながら、京葉線と並走したこともあったような。京浜運河辺りで東京モノレールのレールと並んでいた記憶と混同しているかもしれない。
自分で通った記憶があるような気がするのに、Google mapでルート検索をした時にはいつも出てこないルートだから、もしかしたら捏造された記憶かも。

それからぼんやりと憶えているのは、着く前の景色。最後のジャンクションを過ぎると、車線が減って車通りも少なくなり、ふっと静かになる。先の見えない、緩いカーブが続く道。何度か通って見慣れた、雑居ビルの色と形。あの建物では普段、誰がどんな風に生きているのだろう。ここを抜けたらもうすぐ、と感じた安堵と少しだけの不安が今でも自分の中のどこかに残っているような気がする。

あの場所にまだ住んでいるのだろうか、などと考える人とは8月に遊びに行くことになっているらしいから、会った時に訊いてみれば良い。そんな約束は本当にしていたのだったか、守られなくたって良いと今では思う。自分で連絡を取って始めたことだけれど。つくづく、破滅するのが好きなようで。


ちなみに横浜に車で行くには、最低でもお台場の方を通らないといけないらしい。となると、例の橋桁の道を通らないといけないのか。これは電車だね。

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