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空の色だけ

この空の色ばかりを見てる。

「雑草とは学がないために名前を知らない無数の植物の総称」だという。雑草と呼ぶ植物が多ければ多いほど、植物に対する無知と無関心を晒してることになる。
同じ理由で、ある時、自分は空の名前を知らないと思った。色、模様、風、雲。空を言い表す言葉を知らないことがなんだか勿体無い気がして、「空の辞典」という本を買った。
それがいつだったか、覚えていない。2020年より前だったか、後だったか。

自分にとって、キリストの誕生が紀元前と紀元後を分かつように、人生は「2020年の春」を境に大きく分かれている。
シューゲイザーが好きだった人との出会いと別れ、それに続く狂乱の世の中は、自分の感情やら思考やらをどこかしらへ方向づけるのに十分な変化だった。

空の辞典という本は、結局あまり読まなくて、本棚を飾る水色の背表紙が小さな部屋に彩りを与えるだけとなっている。でもほら、読むべき本のない本棚ほどつまらないものはないというし。多分。そんな感じで、まだ読んでいない本を無数に積み上げている。

空の本と似たような理由で、昔、歳時記を買った。季語をちゃんと知りたくなったから。夜明け前、夕暮れ、季節で最も美しい時間のこと。空高くさえずる鳥の名前、緑の中に咲く小さな花の名前、冬になると感じる寂しさと温かさの名前を知りたくなって。
歳時記は結局、近くの本屋で全てを見つけられなくて、どこか一冊の季節だけが欠けている。あるいはどこか一冊の季節だけしか買っていなかったかも。何にも読んでないや。

元々、文系的な素養があった。
数学より国語が得意だった。言葉が好きだった。
自分が紡ぐ言葉を確かなものにしよう、と思ったのは、恐らくnoteを書き始めた時から。2020年の冬だったけれど。
あの時、もう隠しようのないほど書き連ねてきた時間への憧憬とか未練とか後悔みたいなものを、一切の外界に触れられない世界の中でなんとか昇華したくて、文字を書き続けた。確か半年ほどは、本当に毎日、駄文を産み続けていた。あまりに多くのことを感じたからか、思い出したくないのか、当時の記憶がないので、自分で見返してみるとなんだか光るものがあるなぁと自画自賛したりする。

そんな営みが人生の何の役に立つか、と考えた時、味気なくて悲しいけれど、仕事に生きていると思う。
最近、仕事で書く文章がマトモになってきたと言われるのは、きっと曲がりなりにも継続してきたものがあったおかげだろう。

正直、今の自分が何か良いものを書いているような気はしない。精神を削って追い詰められていた時の自分の言葉の方が、どこか味がある。歪められてこそ光るもの。メカノルミネセンス。
言葉も願いも未来まで、何もかも汚れちまったのに、空だけは今も綺麗なんだなと、少し恨めしいような気になる。

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