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介護の始まりは…いつのまに


死期が迫っていた父を、母1人で、介護するのは、見ていられなかった。

日中仕事に出ていた母が、夕方帰ってから父の世話をし、夜中に何度もトイレの付き添い呼ばれ眠れない。食事はすでに普通の食事はとれなくなっていた。

体は食べらなくても、文句の多い口は変わらなかった。母には召使いのように、アレを持ってこい。アレを買って来いと、今まで以上に言うようになっていた。

がんになってから、数年経っていたが、病状は抗がん剤がよく効いていたようで、一年に1、2度あっても、年老いた身体ではあったが、仕事にも行っていたし、いたって元気そうに見えた。

そう見えていたけど、急速に進んだ病はみるみるうちに、年齢の割には体力のありそうな身体を蝕んでいった。 

この数十年。 
親子ということを、私の中で心の奥底にしまってきた。

親子だから…
娘だから…
長女だから…

私がやらねばならない…

いつだって、私の一方通行で、気持ちが通じ合う時間や、共有することはなかった。
父親には、家族を思う言葉が欠けていた。

悲しさや、寂しさ…襲ってくる虚しさの感情を、仕舞い込むように、距離をとっていた。

そうでないと、私はまたマイナスな感情に振り回されてしまうのがわかっていたから。

長男の子育てに迷走する日々だったので、距離を取っているうちに忘れる事ができていた。

それが、コロナ禍の夏…

父親が転んで骨折した。

迎えに来て欲しい…
病院に連れて行って欲しい…

電話が頻繁にかかってくるようになった。
しばらく目をつぶってきた、両親の暮らしに、
少しずつ、少しずつ入り込んで行かざるえなかった。

いつものご飯が、食べられなくなっている。

はじめは、我が家の残り物を少し、届ける程度だった。しだいに栄養をとりやすいスープ、柔らかい食事、飲み込みができるようトロミや刻み食と、いつの間にか介護食を届けるようになっていった。

求められていないのに、私がやる事なのか?
やってあげたいのか?
食べれなくても、好みじゃなくて食べなくても…


(今、私が出来る事をしよう)

介護のはじまりは、いつの間にかだった。

あの、口の悪い父親が
あと、残りわずかな人生なんだ…

これまで過ごしてきた親子の時間。
小さな時からの違和感。
自分勝手な荒々しい日々。
なんでも父親優先だった。
TVのチャンネルすら変えられない。
三つ指ついておやすみなさいと布団に入る儀式。
進学したい気持ちも、女には必要ないとばっさり。
私が一人暮らしをはじめてから、寄り付かなくなっていった。
結婚し、子どもが産まれて、少しずつ、私は自分の親との悩みを切り離すようにしていた。

お金のこと。
片付けられないこと。
心配のタネはたくさんあった。

高齢になっても働かなければならない状況。
いつまでもゴミ屋敷のアパート暮らしに住んでいる事に、気にしないようにするしかなかった。
何をきいても、何を話そうとしても、

お前には関係ない。

その一言で終わる。

本当に関係ないなら、いいけどさ。
そんなわけはなかった。
私だけが、憤るきもちや、やるせなさをいつも抱えて、過ごしていた。

その気持ちをだれかに共有出来る事もなかった。
親の借金。ゴミ屋敷…。
片付けるのは誰?…

それを誰かに話したところで、わかるわけもない。
言われても、答えに困るだろうと、ただただ、仕舞い込むようにしてきた。
距離を取ることで、平静を保って来たのだ。
一年に、数回、会う機会があると、私は、それだけで、パニックになった。
会うとしばらくは、身体中氷つくような不安感が襲ってくる。

私は、ただ、自分の人生を歩いて行きたい。
それだけなのに、それさえもいけないのではないかて思っていた。
私が、幸せである事への罪悪感。
何か買うことも、どこか行く時も、何か食べるときも、何かを楽しむ時も呪縛が頭から離れなかった…。


心の重い気持ちを抱えたまま、病院に付き添った。

腰の骨を骨折していたので、心配して、病院の車椅子を借りてくると、
父親は、『余計なことをするな』
そんなもんに頼らなくても、俺は大丈夫だという気なんだろうけど、なんとか看護師さんの手を借りて乗せた。

(だったら、私を呼ぶなよ…)

車椅子を押しながら、虚しい気持ちでいっぱいだった。

小さなありがとう…ただ、それだけでいいのに。

主治医の先生から、告知をされた。
なぜだか私は、冷静だった。

長くて一年位…

医師はそういったが、
その言葉を聞いて、
あー、もう短いんだなと…。

それから、一気に、父親の身体は急降下していった。

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