「死にたい」で人生をシャットダウンしようとする人

SNSにあふれる「死にたい」は、1日あたりいくつあるのだろうか。

死にたいという人の殆どは、多分本当に死にたいのではない。結論、生きている中でなにか避けられない障壁があって、それに対して自分ではどうしようもないために生きていること自体をストップさせることで強制的にその障壁を削除しようとしているのだ。であるから、死にたいと呟く相手に向かって「生きていたらいいことがある」とか「あなたが死んだら悲しむよ」とかいうのは全く持って本質的な問題解決にはなっていないのである。

わかりやすくいえば、こういうことだ。あなたがゲームをプレーしていたとしよう。あるステージの途中でどうもこれは雲行きが怪しそうだ、いいスコアがでない、このステージにたどり着くまで頑張ったのに累計スコアが振るわない…となってしまったとしよう。そんなときに、強制的にそのゲームを終了させて、そのステージでの失敗をなかったことにして再度プレーする、なんて経験をしたことがある人はいないだろうか。要するに、死にたいというのは、特定の障害を乗り越えられなさそうだから人生自体をシャットダウンしたい、ということに近い、と思っている(勿論、万人がこうではない)。
ただ現実はそうシンプルではない。あなたが人生において抱えている障壁は、ゲームの第6ステージがうまくいかないとかそんなにはっきりと区切れるものではなくて、もっと複雑に入り組んでいる問題であることがおおい。単純にいじめっ子を転校させたらその人の障壁がきれいさっぱりなくなるわけではない、いじめっ子がいなくなってもその人の壊れた心はもとに戻っていないし、そもそもいじめというのはいじめっ子といじめられっ子の2者間でのみに完結するものではない。
けれど、誰かの死にたい、に対して、死というものがあまりにも私たちにとって大きいものであるがゆえに、私たちは勝手に生を引き合いに出してその人の死にたいを止めようとする。死にたいという人は多分本当に死にたいのではない。生きることを拒否しているわけではない。ただ、障壁を避ける手段においてもう死ぬしか残されていないと感じているだけなのであろう。

じゃあどうしたらいいのかって、そんなこと私にはわからない。多分それがわかっていたら自殺のニュースはもっと少ないはずだ。私だって自分が抱えている苦しいことに対してもう死しか逃げ道がないと思っている(いや、現時点で実行していないので実は他に逃げ道があると無意識に思っているのかも)。