ことばは媒体に過ぎないということ

死にたいという言葉の重さを、わたしは多分よくわかっていない
人の死を、自分にとってのなんらかの意味に変換しようとしているそれは冒涜ではないか
書くとは、ことばにするとはその一瞬の感覚を枠に押し込めること、きりわけること
書くことを前提とした体験は、ことばの枠を通した体験でしかない
特にそのことばが自分にのみ向けたものでないならば、センシティブなものは扱ってはならないのかもしれない
その体験が重いものであればあるほどそれを枠に押し込むのに多少の無理を強いられる
センシティブな体験とことばとの乖離が大きいほど、その体験を都合よく読み替えていることになるし、ときにその読み替えは暴力的になりうる
ことばにすることを前提としなかった体験を、後ほどことばにすることは果たしてどのくらい罪だろうか
どんな体験もそっくりそのままことばにすることは不可能で、後ほどことばにしようがそれは免れないことである
美化したものしか残さない、いや残せないのかもしれない
どろどろと、混沌としたものがことばにする対象であったとしても、混沌としたものとして描き、それに何らかの文脈上の意味を付してしまうのであろう
その時点でそれはピュアではない
ならいっそ、物事の混沌とした面などことばにしようとは思わずに、綺麗な面だけを意図的に切り取っている方がことばの描き出し方としては適しているのかもしれない