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ガンダ厶SEED FREEDOM 雑感 重さを求めて

先日ガンダムSEED FREEDOMを見てきました。SEEDは唯一見ていたガンダムで、思い入れがあります。
機体やキャラ、小ネタには触れず作品のテーマについての感想です。

前置き

まずは僕のガンダムSEEDへの知識及びガンダムへの知識を提示します。

SEED及びSEED DESTINYは全話視聴済みです。しかし、まとまって見たのはかなり前で、公式のダイジェストとyoutubeに投稿されていたSEED年表の動画を見てからFREEDOMに臨みました。



リアルタイムでは見れておらず(幼かったため)当時のネットの評判なんかは体験していません。制作陣のインタビュー等も知らないです。

ガンダムについては前述の通りSEED以外には触れてきませんでした。強いて言うならばビルドファイターズは見ていましたが、戦争を取り扱ったガンダムについての知識は無いに等しいです。

感想

ざっくりとストーリー解説を交えながら感想を語っていきたいと思います。

前作、SEED DESTINYでキラたちは「ディスティニープラン」を退け話を終えることになりました。
「ディスティニープラン」とは遺伝子によって適性を決め、定められた役割を全うするように生活を営むようにさせる計画です。その結果、人々は頼り、頼られるようになり、充実感を覚え、争いは起きなくなる、というものです。

ある種のユートピアであり、ディストピアで幾度も語られてきた内容です。
オルダス・ハクスリー『素晴らしき新世界』、ジョージ・オーウェル『1984』
SEED以後だと伊藤計劃『虐殺器官』、『ハーモニー』そして『PSYCHOPATH』。
僕が追えてないだけでまだまだあるでしょう。

キラは運命に縛られる人生は正しいあり方では無いという主張で「ディスティニープラン」には否定的です。

そうして本作、ガンダムSEED FREEDOMが始まります。一時の平和は得ることが出来ましたが争いは終わりません。キラは中立の立場から戦い続けます。戦いが一向に収まらない現状からキラは「ディスティニープラン」を止めたのは本当に正しかったのかと悩むことになります。

FREEDOMでは新たな組織が出てきます。
彼らは「ディスティニープラン」を引き継ぐ
という目的を持っています。SEED DESTINYにて「ディスティニープラン」自体はキラの手により止められましたが、明確な反対理由もないまま止められたので意志を次ぐ者が現れることは不自然ではありません。また「ディスティニープラン」に対して魅力的だという意見を持つ者はSEEDを見ている我々を含めて少なくないはずです。

そしてキラ達と敵対することになります。

つまりFREEDOMの大枠はSEED DESTINY終盤のやり直し、ということになります。
ディスティニープランに対しての回答。
これが本作へ与えられた課題であり、今の時代に作られた意義だと思います。

いきなりキラはうじうじと悩む所から始まり、意志を持って戦え!と思った視聴者は多いのではないでしょうか。アスランの拳にスカッとしたのではないのでしょうか。僕もその1人です。反面、僕はキラには悩んで欲しいし悩むべきと思って見ていました。

何故ならば「ディスティニープラン」という問題は根源的なもので非常に難しいのです。時代に合わせ何度も語られるような内容なのです。
放映当時から年月が経ち、技術も発達しました。時間の経過によって見えてくるものもあります。監督の、キラの哲学が見れることを期待してFREEDOMを見ました。

結果は残念な内容でした。

FREEDOMの返答は「愛」でした。
「愛」という結論に対して残念だった訳ではありません。結論は何でも良かったのです。そこに「誠実さ」と「重さ」が欲しかったのです。
提示された「愛」の軽さにがっかりしたのです。

人々が会話をし、分かり合うことで争いを無くすことが出来る、そんなキラの主張の元再び「ディスティニープラン」は阻止されます。

現実問題、実現できるのか、「ディスティニープラン」へ魅力を感じていた人らへの回答になり得ているのか、言及する所はたくさんあります。

提示方法も非常に悪いです。「ディスティニープラン」の否定のために使われたのは「愛」ではなく「武力」です。
「愛」とはなんなのか、ということに問いすら立てられていません。
話し合えば解決できると言いますが、話し合いで分かりあえない場合はどうするのでしょうか。
愛ゆえの暴力という言葉もあります。キラとアスランは肉体をぶつけることで初めて問題を解決することが出来ました。

「愛」という概念。これもまた作家や哲学者によって長年語られてきました。
FREEDOMの「愛」には演出の重みも言葉の重みも感じられませんでした。
強いて言うならばファンからの「愛」でしょうか。ファンたちの「愛」に応える、そんなトンチで「ディスティニープラン」は蔑ろにされてしまったのですか?

僕はガンダムSEEDが好きです。
遺伝子操作という有り得るかもしれない近未来設定、有り得るかもしれない対立、それによる戦争。現代社会を写し取った「ディスティニープラン」。
重い問いかけが僕の中で長年残っています。
少なくとも2024年には再視聴に耐えうるだけの強度を持っているの僕は主張します。
AIが実用性を獲得しつつある今、ナチュラルvsコーディネーターの構図は無視できないものだと思います。
この重さと優れた思考実験性こそが僕の中のガンダムSEEDでした。

だからこそFREEDOMには重さを提示して欲しかった。安易に逃げて欲しくなかった。

FREEDOMの示した「」はとてつもなく軽かった。


以下雑談のようなものです

※同じ問いについてもう一度語り直すことについて僕は肯定的です。そういう意味でもFREEDOMには期待していました。
もし次作があるのならば「愛」について語ってもらいたいです。

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