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イナーワールド 第3話「豊穣の雨」

第3話 豊穣の雨
 夢から覚めてから最初に目にしたのは、窓の外を歩く巨大なデ・キリコのマネキンだった。俺の好きな絵画「ヘクトルとアンドロマケ」がまさか具現化した状態で見られる時が来るとは……。
 すっかり異常な光景にも慣れていってしまった。
 黒板、教卓、机、椅子、ここはどこかの教室なのだろう。
「ちょっといつまで寝てるのー?」
 いたずらっ子のような声色で話しかけてきた佐伯エリは、数ミリほどの距離まで俺の顔に接近し、目を覗き込んできた。
 俺は驚き、慌てて後ずさろうとしたが、全く身動きが取れなかった。顔を下に向けると、俺の身体は黒い鎖で拘束されていた。
「ねえ。辰きゅんは日向ちゃんと楓ちゃん、どっちが好きなの?」
 状況が一ミリも把握できない。他のみんなはどこにいるのだろう。俺を拘束したのは佐伯なのか?
「ねえねえ、ちょっと聞いてるんですけど、答えてよー」
「べつにどっちもそういうのじゃない」
「嘘つき。そういうのじゃなかったら辰きゅんにとって彼女たちはどういう存在なの?」
「クラスメイトと幼馴染」
「ふーん、まあいいや。エリの目はごまかせないからね。だって二人を見るときは男の子の目になってたもん」
 佐伯はしゃがんでいた腰を上げ、教卓の方へ歩いていく。教卓の下に改めて目を向けると、誰かが傷だらけで倒れ込んでいるのを発見した。破れた黒ストッキングに黒のタイトスカートを履いている。血の付いた白衣のようなロングシャツを羽織っている。おそらく女性だろうが、一体誰だろう。
 その女性は教卓の脚を支えにして、おもむろに立ち上がった。
 ブロンドヘアーが重力で垂れ下がり、背中や肩にかかる。左手にはリボルバー、右手には銃弾を握っていた。
「三日月。なんで教師みたいな格好してるんだ?」
「は? 今そんなことどうでもいいでしょ。蜘蛛野郎に服破られたから廃校舎にあった服をかき集めてきたのよ」
「蜘蛛男は?」
「知るわけないでしょ。あんた今の状況わからないわけ?」
「辰きゅんはお寝坊さんのうえにお寝ぼけさんなんだよ」
 俺がバカなだけなのか、未だに状況が整理できない。
 三日月がピンチだってことだけはわかった。そして、俺も。
 相変わらず、俺の能力は何も発動しなかった。
「廊下にあった十三人の死体。あれはこいつの仕業だったの」
「ちょっとネタばらし早くない? まああの状況だとだいたいエリだってわかっちゃうよね」
「なんで殺した」
「人類が滅びるか、生き残るかのロシアンルーレットなんて超おもしろいじゃん。どうせエリは死ぬつもりだし」
「でも十三人もどうやって……」
「エリはかわいい小悪魔ちゃんだから猛毒を込めた愛の矢で人の心を撃ち抜くことができるんだよ。ほかにもいろいろできちゃうよ。鎖で拘束したり翼を使って攻撃したり。エリは最強で無敵なアイドルだから」
 どこかで聞いたようなフレーズ。本当に悪魔的な強さを持っているのは間違いない。
 現に三日月の身体もボロボロの状態である。
「じゃあ辰きゅんはそこで楓ちゃんが死ぬところをよく見ててね」
 三日月は佐伯を睨みつけて舌打ちをする。
 教卓をはさんで二人は向かい合った。
「リボルバーに弾込めないの?」
「うっさい」
「ハハハ、楓ちゃんもしかしてまだ躊躇してるの?」
「は?」
「ねえ、辰きゅん。なんで楓ちゃんが銃を生成する能力もっていて、かつなんで撃てないか教えてあげようか?」
 たしかになぜ三日月とリボルバーが結びつくのかはずっと疑問に思っていた。
「それはね……」
「やめて」
「楓ちゃんは銃で人を殺したことがあるからだよ」
 三日月は下を向き、長い髪で顔を隠したままわなわな震えていた。
「どうしてあんたがそのこと知ってんの?」
「どうしてだろ。エリのパパがその事件と絡んでたからかな」
「なるほど……」
「まず覆面を被った男が家に入ってきて楓パパとママを殺したんだよね。その男は相当楓の両親を恨んでいたみたい。それから目撃者の始末をするために楓ちゃんと妹のアカリちゃんも狙ってきたんだよね。怖かったよね」
 でも運が良いことに少し大きめの地震がきて、その男は箪笥の下敷きになったという。そこで警察を呼べばよかったが、三日月は気絶している男からリボルバーを奪い、彼の頭に四発の弾丸を打ち込んだ。両親を殺された恨みと死の瀬戸際に立たされた切迫感に背中を押されて打ち込んだのだろう。
「だから自分の感情で人を傷つけることを異常に恐れてるんだよね」
「あんたの父親ってまさか」
「楓ちゃんのパパがいけないんだよ。エリのパパとの約束を勝手に破ったんだからね。会社の秘密を警察に売ろうとしたりするから」
「それで頭のおかしい部下に嘘を吹き込んで私の両親に恨みを持たせたってわけ?」
「エリもよくわかってないけどざっくりそんな感じかも」
「私のお父さんは自首ししようとしてたのよ。会社で悪いことをしてたみたいだから。悪いことをすることはもちろんよくないけど裏で手を汚さずに人を操ってるやつも同等以上のクズだわ。私はべつに両親のことはどうでもいいの。アカリさえいればいいから。それよりも人の命を軽々しく見てるやつらが反吐が出るほど嫌いだわ」
「人殺しが言うとやっぱり説得力が違うね」
 リボルバーに弾を込めた三日月は、素早い動きで佐伯の額に銃口を押し付けた。
 急にスピーカーからドビュッシーの「月の光」が流れ出す。
 二人は瞬きを一切せずに睨み合っている。二人の周りにはおどろおどろしい緊張感が漂っていた。
「あなたは注目を浴びたいだけなのよ。人に自分を見てもらいたいんでしょ。人に見られることによって初めて人は存在できるもんね」
「それの何が悪いの? エリの可愛さをみんなに見てもらって何が悪いの?」
「それでこんな馬鹿なマネまでしてるんだ」
「だから何?」
「ホントかわいそう。誰からも愛されなかったのね」
「べつにいいじゃん。いつかはみんな死んじゃうんだし。だからエリの好きなようにやっただけじゃん」
「次は尊重って言葉を覚えたほうがよさそうね」
「次?」
「ええ、私は絶対Xを見つけ出してアカリを連れ戻す。そうなればあなたも元に戻るんでしょ」
「へー。Xが誰かわかるといいね。エリはたとえ元の世界に戻ったとしても自殺を選ぶから関係ないけど」
「勝手にしたら」
「いいから早くエリを撃ってみなよ。楓ちゃんはどうせ撃てないでしょ」
 シリンダーを回し、引金に指をかける。三日月の人差し指に少しずつ力が入る。
 佐伯は奇妙な笑みを浮かべながら三日月を興味深そうに観察していた。
 三日月は歯を噛みしめ、目を強くつぶる。大きめの汗が床に滴り落ちた。
 次の瞬間、佐伯エリの頭が弾け飛び、水風船が割れたように真っ赤な血が全方位に噴き出した。
「三日月が撃つ必要はない」
「内島?」
 頭のない佐伯は静かに左横に倒れていった。
「やっと俺の能力が理解できた。どうやら発動条件は誰も俺のことを見ていないことが条件らしい。三日月たちの会話にヒントを得たよ。ついでに透明になってから元に戻るとき、自分の肉体と重なるものは存在がなくなるらしい」
「その最後の効果はどうやってわかったの?」
「自分の頭の中にそういうイメージが湧いてきたんだ」
 俺はこの自分の能力を「存在力」と呼ぶことにした。
「佐伯はXでもYでもなかったな」
「そうみたいね」
 その時、背後からおぞましい殺気を感じた。
「カエデー」
 パンッと鳴り響く銃声と共に蜘蛛男が死体となって床に転げ落ちた。数秒遅れていたら俺は蜘蛛男に頭を掻っ切られていたかもしれない。
「戦うときは戦うって決めたの。自分の過去や感情に囚われず現在を見ることにしたわ」
「そうか」
「少し疲れたわ」
「そうだな」
 俺と三日月は窓際の席に腰を下ろした。
 外は相変わらずカオスな世界のままだった。
「実は私も進路調査票に何も書けなかったの」
「知ってる。前島から聞いた」
「あいつ殺す」
 三日月は鬼の形相でリボルバーを握りしめる。
「過去に縛られていて前を見ることができなかったの。でも今なら何か書けそう」
「あれだけ俺に偉そうなこと言ってたのにな」
「悪かったわね」
 三日月の横顔が赤い月光に照らされ、返り血で真っ赤に染まった肌がより赤く光る。
「あ、あの……、ありがと。アカリを助けに行ってくれて」
「いやでも助けれなかった」
「助けに行ってくれたことが嬉しかった」
 あの時、自分の都合で行動しただけとはとても言えなかった。それでも三日月の姉妹のように、他者のために生きるというのも悪くないとは思った。次こそは誰かのために行動できるような人になりたい。
 教室の窓から校庭を眺めているとよく熟れたスイカが草陰に実っているのを発見した。俺がそのスイカを視認した途端、スイカが二つに割れ、中からスイカの種のような蟻が大量に溢れ出してきた。ピンク色の風がせわしく窓ガラスを叩く。これは本当に現実の世界なのだろうか。
 スピーカーから流れる曲がリストの「愛の夢」に切り替わる。
「ねえ、あんたも楓って呼びなさいよ」
「どうして?」
「嫌ならいいわ」
「べつに嫌ではないけど……」
「じゃあ私も辰って呼ぶことにするから」
「わかった」
「お互い血まみれね」
「そうだな。顔でも洗いに行くか」
「待って」
「……」
 やわらかい感触が唇にそっと当たる。
  思考と身体が一旦停止したせいで、口の端から血液と混じった唾液がこぼれ落ち、鎖骨に垂れてしまう。
  この一秒が永遠に感じられた。
「さあ行くわよ」
「あ、ああ」
 教室の扉に目を移したとき、誰かの影が見えたような気がした。
 鋭い雨音を背中で感じた。これ以降、外の雨は止まなかった。

 僕、榊原光は、代々続く芸術家の家系に生まれた。小さい頃からピアノ、ヴァイオリン、お絵かき教室など様々な習い事をして、隙間時間は読書に使った。そのため子供の時から友達ができず、孤独であることが当たり前の環境にいた。
  それでも構わなかった。
  むしろ芸術を知らない愚民どもを下に見ていた。
  しかし、それは違った。芸術を知らなかったのは僕の方だった。芸術は常に彼らの中にある。芸術は日常の中に潜んでいる。芸術は僕たちの日常に彩を持たせ、豊かにし、人々と分かち合うためにある。
  日常を、僕を含めた彼らを愛せない者は芸術に意味を見出せない。
  辰たちに出会って、より強くそう思った。
  けれども、日常を一番の価値として置く場合、僕たちはどうやって死を克服するのだろう。神がこの世にいないとすれば、僕たちの本質、つまり生きる目的は誰も教えてくれないということだ。それぞれが自分の生きる意味を見つけなければならない。となると、日常を至上のものとして設定することはどうしても無理が生じる。なぜなら決して達成できないものだからだ。では、何を生きる目的として設定すれば、人生を豊かなものに、意味のあるものにすることができるだろうか。
 放送室のテープが停まったので、バッハからベートーヴェンのカセットに取り換える。
 するとノックもなしに放送室の扉が開き、誰かが入ってきた。
「やはり君だったか」
 その者は黙ったまま依然として立っている。
「もうすぐクライマックスってわけだね」
 僕は優しく微笑みかけながら、指を大きく鳴らした。

「内島、大丈夫だったか?」
 廊下の奥から前島が走ってきた。
「なんかおまえら血だらけだぞ」
「ああ、顔は洗い流せたけど流石に服は洗えなかったからな」
 俺と楓は顔を見合わせる。
「なんかおまえら距離近くなってねえか?」
「は? ぶち殺すわよ」
 感情で人を傷つけないと言っていたわりに何の躊躇もなく前島に銃口を向ける楓。
「こわいって。それで他のやつらは見てないか?」
 俺は佐伯エリと蜘蛛男のことを前島に話した。
「じゃあ残りは俺合わせて五人ってとこか。榊原と向日葵が生きていたらの話だけどな」
 前島がそう言った瞬間、階段付近の教室から日向が現れた。
「日向。よかった無事で」
「う、うん。でももしここでわたしが死んでもまた生き返るから。それかみんないなくなるんだから」
「もしかしたら日向が殺してはいけないYかもしれないだろ? 俺は日向がYだと思ってる」
「どうして?」
「それは……、なんとなく」
「結局誰がXでYなのか全くわからないままだな。ヒントなんて何もないし。あのチビ天使やっぱり嘘ついたな」
「あ、ああそうだな」
 俺はXの心当たりが多少あったが、この場では何も言わなかった。
 俺たちは情報共有をしながら榊原の行方を捜すことにした。
「内島、自分の能力がわかってよかったな」
「ああ、ちなみに前島はなんでウクレレなんだ?」
「俺ギターが欲しくてさ。そしたらおばあちゃんが誕生日プレゼントで買ってあげるって言ってくれたんだよ。でもおばあちゃんギター知らなくて封を開けたら中身はウクレレだった。まー、おばあちゃんギターありがとうっつってな。おばあちゃんがせっかく買ってくれたからウクレレ練習してたんだけどよ、意外とはまっちまって、今じゃウクレレなしの生活は考えられねえってわけ。それでたぶんウクレレなんだよ」
「ギターとウクレレ間違えるおばあちゃんもなかなかだな。まあそれでウクレレってわけか」
「でもなんで眠らせるバフがかかるのかはわからねえ。自分まで寝ちまうしよ。その後変な場所に転移させられるし」
「それはおまえがよく授業中に寝るからだろ」
「産声あげてた内島に言われたくねえよ。おまえだって存在感ないからその能力なんだろ」
「やっぱそうなのか……」
 そんなふうに駄弁って歩いていると、なかったはずの大きな扉が一階の廊下に道を塞ぐようにして立っていた。
「何かしら。邪魔ねコレ」
 楓が躊躇いなくドアノブを握り、扉を開く。
「やめろ」
 俺の声が届く前に開け放たれた扉の向こうには、黄金の麦畑が広がっていた。
 うつろな目でふらつく楓は、右手にリボルバーを握ったまま麦畑へと吸い込まれていく。すべてを察した楓の目には薄く涙が浮かんでいた。
「何も見えない」
 楓はそう言うと自分の足で麦畑へと向かって行く。
 謎のバリアが張られているせいで、楓に触るどころか、近づくことすらできなかった。
 奥へ奥へと一人で進んでいく。
「アカリー、アカリー」
 やがて彼女の叫びも聞こえなくなると、静かに扉は閉じた。
「かえで……。あまりにも理不尽すぎるだろ」
 その扉はオオカミとイノシシを足して二で割ったような猛獣へと姿を変え、俺たちに襲い掛かってきた。
「耳を塞げ」
 前島が咄嗟の判断でウクレレを取り出し、弦をはじく。前島が倒れると同時に猛獣もふらついた。その隙を狙って、俺の存在力で猛獣を仕留めた。
 一瞬、視界が真っ暗になり、再び視界に光を取り戻したとき、俺は一人で教室の隅に座り込んでいた。
 それからまたしばらく時が経った頃、校舎のスピーカーからバッハが流れだした。


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