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イナーワールド 最終話「濫觴の海」

最終話 濫觴の海
 スピーカーからはバッハが流れていた。
 バッハは母が好きだった。
 父は音楽が好きではなかったので、父が働きに行っている平日のお昼の時だけ、家の中に音楽があった。もちろん、そのほとんどがバッハだった。
 父はDIYと節約が趣味だった。値札の張られた商品をいつも嬉しそうに買ってきていた。応募券やカードのポイントを集めることも好きだった。
 二人の間には喧嘩が絶えなかったが、客観的に見ればある程度円満な家庭に見えただろう。
 俺は母の影響を顕著に受け、音楽と美術にはまった。特に美術に時間を費やし、中学の時には美術部にも入った。小学生からの仲だった向日葵日向とよくスケッチをし、意見も交わしていた。しかし、向日葵日向の方が芸術の才はあった。
 高校に上がるタイミングで、両親の間に亀裂が入ってしまった。母が違う男と不倫し、それがきっかけで離婚することになった。俺は父の方に引き取られ、父子家庭として高校に進学した。そして、高校一年生の夏、交通事故で父が死んだ。もともと美術部には入らない予定だったが、父の死を境にペンを持つことさえやめてしまった。
 まあ不幸な人生とも言えるかもしれないが、あらかた他の人の人生もこんな感じだろう。もっと悲惨な人生を送っている人は山ほどいるし、俺はまだ十八年しか生きていないのだから人生を語るにはまだ早い。
  しかし、人生について考えるのは今からでも遅いぐらいだ。
  もうすぐ世界が破滅するか、修復するかが決まる。
  そして、この世界を破滅に導いた元凶Xは俺ではないかと思っている。
  好きだったシュルレアリスムの絵画やスイカ、そして何よりこの校舎は俺が通っていた小学校に酷似している。ステラはこの校舎の中にヒントがあると言っていたが、それだけではないと思う。
  赤黒い空に、空間の裂け目から顔を出す赤い月。ビルがひしゃげ、車が液状に潰れるなど、これらのイメージは俺が子供の時からよく想像し、小説のようなものに書き連ねていた世界だ。
  おそらく俺のイメージを具現化した世界なのだろう。
  だから、この世界をめちゃくちゃにする原因らしき原因を自分の過去に探していたが、それらしきものは見つからなかった。
「ねえ、辰。そ、その、ちょっと来て」
「日向、いたのか」
「うん、隣の教室にいた。他のみんなはわからない」
「そうか……、楓は大丈夫だろうか」
「……と、とにかく来てほしい。わたしが目覚めた教室に変な扉が二つあったの」
 扉と聞いて、さっきの麦畑がフラッシュバックする。
 楓を救うためにも俺を早く誰かに殺してもらわないといけない。
「あの日向……」
「とにかく来て」
「あーわかったよ」
 隣の教室に行くと、日向の言う通り扉が二つ置かれていた。
 左の扉は赤く、右の扉は青かった。
「ねえ開けてみる?」
「俺が開けてみる。それと一つ約束してくれ。もし俺がおかしくなったら迷わず殺してくれ。それか逃げてくれ」
「なんで?」
「俺がXの可能性が高いから」
「え、いやそんなこと……」
 日向も心当たりがあるのか、声のトーンは徐々に下がり、押し黙ってしまう。
「じゃあ開けるぞ。俺は赤を開ける」
「えっ」
「赤はダメなのか?」
「ダ、ダメじゃないけど開ける扉決めるの早くない?」
「時間がないんだ。先に世界が滅びてしまう可能性もある」
「う、うん」
 俺は赤い扉に手を差し出し、ゆっくりとノブをひねる。
 扉の中が少し垣間見えた。中は暗く、何も見えない。とはいえ、今のところおかしなところはない。
 俺は勢いよく開け放とうと、ドアノブを握りなおした。
 その時だった。
「開けちゃダメ」
 今まで聞いたなかで一番大きな日向の声だった。
「なんでだよ」
「開けちゃダメ……。やっぱり青が正しい扉なんだよ」
「だからなんでわかるんだよ」
「わからないけどわかるの」
「どういうことだよ。まあべつに青い扉でもいいんだけど」
 俺は日向の指示に従って、青い扉を開けた。
 そこには、青空と草原が広がっていた。緑のカーテンのように背の低い芝がゆるやかに靡いていた。
  俺と日向が青い扉の中に入ると、その扉は姿を消し、この空間のなかに俺らを閉じ込めてしまった。
  フラットな風景のなか、不自然に置かれた一枚の絵画を発見した。
  ウォンツの「希望」という絵画だった。盲目の女性が球体に腰かけ、弦が一本しか残っていない竪琴に縋りついている。女性の頭上には星が一つだけ輝いている。あまりにも不安定で幻想的な絵画だ。
「なんだろこの絵。こわいね」
「こんな世界になってから意味がわかったことは何一つない。けどなぜかこの絵にはすごく惹かれる」
「わたしはこの絵好きじゃない。胸が苦しくなる」
 俺はこの絵が嫌いじゃなかった。画風が好みということもあるが、俺を強く引き付ける何かがある。
「辰、あっちに家があるよ」
 それは三角屋根の黄色い家だった。
「ねえ、あの家に行こ」
「ちょっと待ってくれ。もう少しこの絵を見たいんだ」
「ねえ」
「ん?」
「ここに二人で暮らさない? もしかしたらこの空間は外の世界と分離してるかもしれないよ」
「仮にそうだとしても俺は元の世界に戻るべきだと思う」
「どうして? こっちの世界の方が意外と楽しいかもしれないよ?」
「そうかもしれない。でももう逃げ出したくはないんだ」
「逃げ出したって仕方ないじゃん」
「いやでもやっぱり悔しい。不条理な現実世界で俺は戦い続ける。自分の生き方を見つけるまで」
「わ、わたしは辰と一緒にいられるだけで幸せなの」
「ありがとう。でもやっぱり戻るべきだ。戻った先でまた一緒に生きていけばいい」
「一緒に生きていけないかもしれないよ。それに一緒に生きるならここでもいいとおもう」
「やっぱり逃げちゃダメだよ。たとえ戻った先がどんだけ辛い世界でも。俺たちの想像力と行動力で少しずつ世界を変えていけばいい」
「辰は何もわかってない」
 ウォンツの「希望」からまた赤い扉と青い扉の二つが飛び出してきた。
「二人だけの世界にしてくるから少し待ってて……」
 日向はそう言うと、青い扉の向こうに消えていった。
 そして、俺は赤い扉を開いた。
 暗い暗い道を進むと、泣いている少女を見つけた。七歳ぐらいの子供だろうか。よくよく顔を覗くと、その少女は向日葵日向だった。
 こちらが話しかけても触ろうとしても彼女に干渉することはできなかった。
 すると酒瓶を持った父親らしき、人が現れた。
 結論から言うと、ここは向日葵日向の記憶の中だった。
 日向は、幼い頃、アルコール依存症の父に虐待を受けていた。あざができるまで殴られ、怒鳴られ、物を壊されたが、父がエスカレートしだすと、母が身を挺して日向を守っていた。その代わり、日向以上にひどい仕打ちを母が受けていた。
 小学四年生になったころ、勇気を出して母が警察に連絡したおかげで、暴力的な父の元から離れることができた。
 しかし、それで悲劇は終わらなかった。それまでの強いストレスが原因で日向は睡眠時遊行症、いわゆる夢遊病となり、夜中、眠ったまま変な行動を起こすようになってしまった。その度に母は眠らず、日向のことを見張っていた。夜でも暑い真夏の日だった。いつものように夢遊病が発症した日向は、ベランダの方に向かって歩いていった。網戸を開け、ベランダの塀をよじ登った時点で母は気づいたが、日向はそのまま落下してしまった。その後を追って母も飛び降りた。母がなんとか日向を抱え込んだことで日向自身は助かったが、母は打ち所が悪く死亡。
 その後、日向は母方の祖父に引き取られ、転校した先で俺と出会った。閉ざされていた心が徐々に開いていった。
 日向はまるで俺のストーカーのように俺のすべてを調べ、俺の好きなものをすべて好きになっていった。俺の厨二病的な妄想も飽きずによく聞いていた。
 日向の過去をたどりながら歩いていると、再び俺は廃校舎に戻ってきた。
 最後に見えた記憶は中学の卒業式で俺のいない机を眺めている場面だった。
 そこでバッハからベートーヴェンに切り替わる。
 Xは俺ではなく、日向だった。
 気がつくと、シュルレアリスム絵画の中にいるような空間に自分がいた。
 砂時計、顔が扇の人形、リンゴ、ペーパーナイフ、手袋、目玉、あらゆる物体がすべてでたらめな大きさや配置で並べられ、混沌とした空間となっていた。浮遊する物体の奥にある上空には星が散らばる夜空が広がり、小さな太陽らしきものも存在した。
「やあ辰くんが生きていてよかったよ」
「光、いままでどこにいたの?」
「放送室だよ」
「だから音楽が廃校舎に流れていたんだ」
 光は俺の顔をまじまじと見て、優しく微笑みかける。
「辰くんもⅩがわかったみたいだね」
「ああ、Ⅹは日向だった」
「じゃあこのラグナロクに決着をつけようか。と、その前に一つ聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「なに?」
「君はこの世に生きている意味があると思うかい?」
「ない……、と思う」
「奇遇だね。僕もそう思う。やっぱり君とは波長が合うよ」
  光はまたもや爽やかな笑顔を俺に向ける。
「そう、生きる意味はない。正確には普遍的な生きる意味はないってことだけど。神はいないからね。つまり、『辰くんはこれを目的に生きなさい』っていう明確なゴールを与えてくれる何かはいないのさ。だからこそ自分で生きる意味を目的を創ってしまえばいい。そう思うんだ」
「どうやって?」
「それは自分で考えるんだよ。例えば大学受験で合格することを生きる目的にしたとするだろ。するとそのために費やした勉強の時間に意味が付与される。ただこれだと受験に関係すること以外には意味が付与されない。それに受験が終わった途端、目的を失うことになる。まあまたすぐに新しい目的を見つけられたらそれでいいんだけどね」
  白い太陽光に照らされた髪をかき上げながら、光は続ける。
「君は何か目的みたいなものはあるかい?」
「まだ見つけられてない。これから見つけるつもり」
「いいね。僕はね、すべての時間と空間に意味を付与できる強固でファンタスティックな生きる意味を見つけたんだ。それはね、やっぱり芸術さ」
「芸術?」
「そう、芸術。創作活動とも言い換えられるね。小説を書くとすると、遠回りして通った帰り道で見つけた一輪の鈴蘭、階段から滑り落ちて腕を骨折したこと、好きな人と目が合ってときめいた瞬間、すべてが小説のネタになる可能性を孕んでいるため、すべての事象に意味が付与される。そして芸術は不条理に押し付けられる『無』に対しての抵抗運動でもある。勝てないとわかっていてもそれぞれが持つ生のエネルギーで抵抗し続ける。その時の輝きが生きた証となって残っていく。文学、美術、音楽だけではない、いまもこうして残っている文化や伝統も彼らが生きた証なのさ。その証を見るのもまた僕は好きなんだ。少し語りすぎたね」
  光はおもむろに立ち上がると、数歩前に歩き、顔だけを僕の方に向ける。
「さあ、レクイエムの時だ」
  ベートーヴェンの第九が流れると同時に、榊原光は二つの壮麗な翼を広げ、大空へ羽ばたいた。大地が揺れ、目の前の物体が粒子のように動き回る。
「この世界は自分のイメージを介入できる。そのイメージ次第で人は空も飛べるのさ」
  彼の姿は神々しかった。まるで光自身が神になったかのようだった。
  しかし、不条理な現実はイカロスの翼を燃やす太陽のように、彼のイメージを圧倒的で理不尽な暴力によって蹂躙する。闇の中から飛び出してきた巨大な二本の腕が彼の両翼を引きちぎり、そのまま彼を地面に叩きつける。
  骨が砕け、大量の吐血を繰り返す光は、それでも笑みを絶やさなかった。
「僕が無理でも君なら……」
 再び翼を身につけ、太陽に向かって飛翔を試みるが、結局墜落してしまう。ついには彼の原型すら残らない無残な形で散ってしまった。
「愚かなやつじゃ」
「ステラ」
「あやつも自分の世界に閉じこもったままだから最後まで飛べなかったんじゃ。世界は一人では完結できん」
「この世界って現実世界とは地続きの世界じゃなくて日向が創り出した別の世界だったんだな」
「そうじゃ。これは日向の内側の世界。イナーワールドじゃ」
「ステラ、俺に力を貸してくれ」
「後悔しても知らんぞ」
「ここで日向のもとへ行かない方が後悔する」
「そうじゃろな。わかった、行ってくるのじゃ」
「ありがとう。また会えたらその時……」
「それはお互い難しいじゃろうな」
 ステラはどこかさみしそうな表情を浮かべて遠くを見つめていた。
 俺は「さよなら」と小声で告げ、ステラが用意してくれたワープホールから日向のもとへ向かった。
 真っ白な箱のような空間に向日葵日向はいた。
「やっぱり元の世界に戻るのは危険だよ」
「俺だって現実は嫌いさ。不条理さはこの世界とそんなに変わらないしどう生きていけばいいかもわからない。またきっと進路希望調査票は白紙のまま出すかもしれない。それでもそこには日向もみんなもいる」
「そうじゃないの。とにかくダメなんだってば。わからないけど私の世界がそう言ってる」
「内の世界に閉じこもるばかりじゃなくて外の世界も触れるべきだ。俺がずっと側にいるから安心しろ」
「信じてもいいの?」
「ああ。だってYは日向かもしれないって言ったことあっただろ? あの時は俺がXだと思っていたんだけどそう考えたとき一番失いたくないのは日向だなって思ったんだ」
「ほんと?」
「ほんとうさ」
「もし戻った先が真っ暗な場所でも助けてくれる?」
「俺が一つの星となって日向を照らせるように頑張るよ」
「あ、ありがとう……」
 日向はわかりやすく赤面すると、恥ずかしそうに手をこねくり回していた。
「向こうに戻ったらまた一緒に絵描こうな」
「うん」
 太陽のように眩しい日向の笑顔は、彼女の名前にピッタリの輝きだった。
  今なら父がよく言っていた「人生に無駄なことは、ひとつもない」という言葉が、少しだけわかるような気がする。
「それじゃあ目つむって」
「わ、わかった」
 俺は軽く彼女の額に触れた後、「存在力」を使って一つとなった。
 ハープの音色に沿って星が流れ、赤黒い世界が花火のように弾け飛んだ。再び空が割けると、そこは紛れもない青だった。



  七月十日午後九時頃、‪✕‬‪✕‬県‪✕‬‪✕‬市の‪✕‬‪✕‬港で18歳男性と6歳の少女がクルーズ船から転落し、死亡しました。18歳男性は、過って転落した6歳の少女を庇い……。
  蝉時雨がせわしなく窓を叩いていた。
  わたしは着替えを済ませ、顔を洗い、あてもなく外へ飛び出した。
  空は青く、木々が揺れ、ビルはそびえ立ち、人々は笑っている。いつもと何も変わらない日常。ただ彼だけがいなかった。
  あてもなく家を出たのはいいが、本当に行くあてがなく、困っていた。2時間ほど歩いて、海岸にたどり着いた。日は西に傾いていた。
  その海岸沿いにある堤防に腰掛け、しばらく呆然と海を眺めていた。
  日は沈み、やがて光り輝く星々と共に、赤ではなく真っ白な月が目の前の空に昇ってきた。
  断続的にくる波の音だけがわたしの耳に入ってきた。
「辰の嘘つき」
  現実世界に戻ると、内島辰の姿はなかった。
  辰はイナーワールド以前からこの世にいなかったのだ。わたしが黄泉の国から無理やり連れてきただけだった。辰の能力が「存在力」だったことも今になってわかった。
  そして、イナーワールドを創ったきっかけも思い出した。
  辰を亡くしたショックからわたしが月に向かって辰のいる世界を望み続けたら、その月がわたしの願いに応えてくれたのだ。
  でもそれは結局仮初の世界だった。
  辰は外の世界に触れるべきだと言った。それは辰以外の存在にも興味を持つべきだっていう意味も含まれているのかもしれない。本当にわたしにそんなことができるのだろうか。ここからまた一人で生きていけるだろうか。
   星々を反射した金色の海が静かにざわめきだす。そこに眠る生命の源がオタマジャクシのように風に押されて揺れ動く。
  どれが辰の星かわからない。
  また会いたい。
  空が裂け、白い月が赤に変わる。
  光の波が砂浜を飲み込んでいく。
  そして、世界は再び歪んだ。


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