見出し画像

書けなくなったって死なない。でも、それでいい。

パソコンの前の椅子に座る。
パソコンを起動する。
デスクトップに貼り付けたnoteのアイコンをタップ・・しようとするところで手が止まる。これがここ最近のルーティンだ。

そう・・書けない!!
なにも思いつかないのだ!!

思いついたとしても「こんなしょうもないこと書いてもなぁ・・」と思いとどまる。そうこうしている間にも届くnoteからの更新通知。「フォローしている方の新しい記事が公開されたよ!!」とご丁寧に教えてくれる。そのほとんどが「毎日更新」をコツコツと続けている方ばかりだ。
「あぁ、みんなすごいなぁ」と感心すると同時に「わたしはなんで書けないんだろう・・」と自分を責める。そんな日々を繰り返すうちに、こんな思いが頭をよぎるようになった。

「わたしは書くことがそんなに好きじゃないのかもしれない」
「わたしが本当にやりたいことはこれじゃないのかもしれない」

本当にやりたいことって?

「わたしはなにがしたいんだろう・・」
ぐるぐるぐるぐる。自問自答を繰り返す。
そんな時、こんな言葉に出会った。

あなたが本当にやりたいことは、死ぬのがイヤになるようなことだ

マルクス・アウレリウス「自省録」

簡単に言えば「『これを成し遂げるまでは死ねない!』と思えることが、あなたが本当にやりたいこと」という意味だ。
そういえば、あのスティーブ・ジョブズも毎日鏡の前で「もし今日が人生最後の日だとしたら、私は今日やろうとしたことを本当にやりたいだろうか?」と自問していたという話を聞いたことがあった。

「これを成し遂げるまでは死ねない!」

そんなもの、わたしにあるだろうか?
偉人や有名人の言葉には、抗えない説得力がある。わたしのような凡人は、ただその言葉をうのみにすることしかできなかった。
考えた。考えて、考えて・・そして愕然とした。

「わたしにはそんなもはない」と気づいてしまった。

「書くこと」は、それなりに好きだ。
でもそれは、本当に「それなり」だ。
「今日が人生最後の日」だとしたら・・「書くこと」なんてきっとしない。
おいしいもんたらふく食べて、家族と話して・・その方がよっぽど大切に思えた。ていうか、これ以上に大切なことなんてあるんだろうか?
「今日が人生最後の日」だなんて、スケールがでか過ぎて想像もできない。みんな「明日は必ずくる」と当たり前のように信じていて、死ぬことなんて真剣に考えたこともなくて、だから「生きていることのありがたみ」をないがしろにして、「成功した将来の自分」や「大それた夢」を血眼になって探している。いや、「夢を持たなければならない」という見えない圧力に追い詰められているだけかもしれない。
わたしだって、きっとそうだ。
あらゆる情報や娯楽、そして「未来の選択肢」が溢れる中で、「とにかくなにかしなきゃ」と焦って、そして「書くこと」を見つけた。つかんだ。
いや本当は「つかまされた」だけかもしれない。
あたかも自分が見つけてきた夢のように思わせて、その実「これがあなたの夢だよ」と、世界にそそのかされただけかもしれない。

わたしは気づいてしまった。
「書けなくなったって死なない」という事実に。

その事実に愕然とした。
そしてその後は、ただひたすらに焦った。
「書くこと」が本当にやりたいことではないのなら、「本当の答え」を見つけなければ、と。
わたしより「書くことが好きな人」はたくさんいるように思えた。「毎日更新」をしている方なんて、とくにそうだ。だから「本当に好きなことを見つけなきゃ」。それが無理なら「書くこと」をもっと好きにならなきゃ。

ぐるぐるぐるぐる。自問自答を繰り返す。
パソコンの前の椅子に座る。
パソコンを起動する。
青白いブルーライトに照らされながら、わたしはただひたすらに液晶画面をにらみつけていた。
そこには、答えなんてないのに。

書けなくなったって死なない。でも、それでいい。

最近、「ノートに感情を書き出す」ことを朝の習慣にしている。
「モーニングページ」というらしい。
むずかしく考えず、ただただ感情や思考を吐き出していく。「本当にやりたいことを見つけなきゃ」と、ぐるぐる考え続けていたとある日の朝も、その習慣は変わらなかった。

窓際の近くの椅子に座る。
パソコンが置いてある机とは別のものだ。
パソコンを開くかわりに、窓を開ける。
朝の風が、カーテンを揺らす。
鼻をくすぐる空気は・・残念ながらおいしくはなかった。どこかの家の朝ごはんのにおいと、家の前を走る原付バイクが吐きだすガソリンが混ざった、都会の朝のにおい。
それらすべてを吸い込み、入れ替えるように「古い感情と思考」を吐き出す。
ふぅ~っと、ふかく、自分の身体から。
ぐるぐるぐるぐる。めぐっていた思考が、真っ白な紙の上に溶けていく。
すべてを書き終えたA4サイズの紙を見つめる。
そこには、はっきりとこう書いてあった。

「書けなくなったって死なない。
でも、それでいい。」

なんだか、自分の言葉で目が覚めたような気分だった。そう。それでいいじゃないか。
「本当にやりたいこと」なんて簡単には見つからない。ていうか、そんなの、その時々で変わるし、正解なんてない。
「もっと書くことが好きな自分」になんてならなくていい。なんで「今の自分」をないがしろにして、「違う自分」になろうとするの?
なんで土台から作り変えようとするの?
そんな簡単な話じゃない。
わたしは、わたしでしかないのだから。
べつに「みんなより書くことが好きじゃなくてもいい」。「好き」なんて人それぞれで、比べるもんでもない。命を懸けられる人はかければいい。
人生をささげればいい。
あいにくわたしは「書くことに命をささげた大文豪」ではない。
なにをいっちょ前に気負っていたのだろう。
かっこつけていたのだろう。
もしかして、気分は大文豪だったのだろうか?
そうだとしたら、なんともイタイ。

「わたしはみんなより書くことが好きじゃない」
「わたしは、書けなくなったって死なない」
それがわかった。それがわたしの「土台」だ。
だから、もっと気楽にやればいい。

今日が人生最後の日だとしたら、わたしは「書くこと」を真っ先に捨てられる。そしておいしいもんたらふく食べて、家族とたくさん話して、笑って泣いて、ありがとうって言いながら死ぬんだ。
それが、わたしにとって一番大切なことだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?