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エッセイ「誰もがみんな傷ついているから、自分でいることは勇気のいること」

誰もがみんな、傷付いている。傷付いたことから始まっている気がする。
傷付いたことで、搾取する側にもなるし、搾取される側にもなる。
利用する側と、利用される側。傷つける側と、傷つけられる側。だから、被害者も、加害者も、根本は同じで、みんな傷付いた経験を持っている。
その傷は、本人ですら覚えていないこともあるだろう。
本人にとって、決定的でない「傷」だとしても、それは無意識に蓄積されているのかもしれない。

そして、私たちの傷付いた心は、「生きるための戦略」を打ち立てようとする。その「生きるための戦略」は、人それぞれ違うので、興味深い。

ある人は、人生全般において回避的になり、ある人は、過剰な野心や理想をもつ。自分の限界を知らないので、仕事も恋愛も燃え尽きてしまう。
ある人は、自分を傷つける行為に走ったり、自己犠牲的な奉仕をしたり、自己憐憫を強くさせたり。共依存に陥ったり、強迫的な行為に取り憑かれたり、神経症にならざるを得ないこともあるのかもしれない。

ただ、私たちは「生きるための戦略」(防衛機制)を駆使して、同じような傷を受けることを恐れていながらも、知らず知らずに過去と同じような場面を何度も繰り返して(反復強迫して)いることも少なくない。私はそうだった。

私は、学生時代から摂食障害、境界性パーソナリティ障害、不安障害、恋愛依存、対人関係に悩まされ、何度も転職を繰り返していた。誰かに自分を否定されることが恐ろしくて、自分自身でいることもすごく苦しくて、自分が何なのか(本当は何を求めているのか、何から逃げたいのか)分からずに、自意識を拗らせていったように思う。

私たちはなんて不器用なんだろう?そして、私たちはどうしてここまで、自分自身を見ないふりして生きてきたのだろう?と、思う。嘆くというより、勿体ない!という気持ちになる。
私たちは生まれたときから大切な存在なのに!

私はある時期に「大切な自分」ということを体感的に悟ってから、自分の目に映る世界はすごくクリアになった。その世界には人間の優劣もないし、敵もいない。私たちがすでに素晴らしい。だから30歳になって初めて人生のよろこびを感じながら「生き直している」ような感覚。

あらゆる生きづらさも、誹謗中傷も、拗らせも、自他への期待も失望も、自己犠牲的な生き方も、支配欲も、不機嫌も、素直になれないのも、人目が気になるのも、
「自分自身の傷(本当の姿)を見ない、知らない、触らない」ことで、二次的に起きているのだとしたら

それって勿体無い。すごく、勿体無い!!!

ただ、自分の傷を認めることは不安だし、すごく恐ろしい。傷の正体を認めることで、自分が何に抵抗しているのかを暴かれてしまうし、何よりそんな事実に自分が耐えられるのかどうかもわからないから。実際に私も凄まじい絶望感と恐怖感に襲われた。

でも、私たちが初めて自分自身を真っ裸にしたとき、その裸をまじまじと見ることを自分に許したとき、というのは、正真正銘の「勇気」であると思う。それこそ本当の「強さ、しなやかさ」なんじゃないかと!
その「勇気」を一人一人が実践したら、世界はどうなるんだろう!??(押し付けではなくて)

あらゆるトラブルも閉塞感も、今ほど「深刻にならない」んじゃないかと思ったりする。みんなが自他を許し合えて、幸せの伝染も生まれやすくなるんじゃないか、って。
そして傷付いた経験は他者への共感能力として養われて、自分自身の奥深い魅力になるだろうと、私は信じている。

だから、少なくとも、私はもう自分を偽らないぞ!と思う。
偽らないというのは、自分の本音に耳を傾けて、自分の価値を自分で認めて、自分を大切にする、ということだ。これは身勝手や自己中心的とは違う。

それは私の勇気であるし、もしかしたらそんな姿が他者にとっても手助けになるかもしれない…。そんなことを考えながら、記しました。

読んでくださって、ありがとうございます!!

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