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003.素敵なステーキ

  あ、肉食べたい。

晩御飯をどうしようか考えていたらステーキハウスが目に入った。実のところそこまで空腹だったわけではないのに気が付いたら店内にいた。肉に呼ばれたとしか言いようのない引き寄せられ方だった。

安さを売りに店舗を増やした某チェーン店を除けばステーキハウスには10年は来ていない。なぜ自分はここにいるのかといまだフワフワした気持ちのままステーキとハンバーグのコンビを注文する。サラダバーは当然セットだ。もし自分が中学生なら肉をおかずに肉を食う勢いだったろうが今は違う。ステーキの合間に口に入るレタスの美味しさを今の自分は分かっている、これは間違いなく自分の成長の証だ。

席に用意されている紙ナプキンの正しい使い方はいまだに分からない。ネクタイのように首から下げてシャツを肉の脂から守るのが正解だとは思うが、ステーキハウスでそれをやっている人はなかなか見ない。だから自分もそうするのは抵抗がある。まったくもって日本人的だなと思う。

スタッフが焼けた肉を乗せた鉄板を運び、軽い説明をしながら目の前でハンバーグを切って火を入れてくれる。ファミレスではお目にかかれないサービスだがそれよりも気分がよかったのは
”鉄板が熱いのでお気を付けください”なんて無粋なことを言われなかったことだ。

この注意説明はあまり好きではない。鉄板ごと出す料理なのだ、冷えていてどうする。ヤケドするほど熱いに決まってるだろう。
「ヤケドの恐れがあることをちゃんと説明しましたからね」
という店側の防衛策なのはもちろん分かっているが、”鉄板が熱くてヤケドしたぞ”なんて子供のような文句をいう連中と一括りにされるのは、やはり悲しい気持ちになる。

鉄板への注意がないお店は、ここにはそういった層のお客様は来ませんよという意味が含まれると考えることにしている。

 話が逸れた。目の前にはステーキと牛肉100%のハンバーグが鉄板で熱されじうじうと音をたてている。ナイフでカットする際のほどよい抵抗、噛みしめると中から肉汁があふれ、炭の香りとソースの味と一緒に旨味が口の中で踊り、祭りは肉が分解され切るまで続く。ここで気づいた。自分はきっとこの食感、噛み応えが欲しかったのだ。

日本人はとかく旨いものを評するとき一つ覚えのように
「甘い」「やわらかい」という言葉を使いたがる。ただ肉に関しては
「嚙み切れないほど硬くて安いだけの牛肉とは違い、この肉は適度な弾力がありつつ程よく柔らかくて旨味にあふれている」
くらいのことは言って欲しいと思う。

噛み応えは重要だ。ステーキの意義の3割くらいは噛み応えにあると自分は思っている。いま自分は分厚い肉を嚙みきっている。栄養を身体に取り込んでいると脳に意識させることで満足度も栄養の吸収率も格段に違う。科学的根拠などない、でも自分の意識がそう言っているなら、この認識は正しいのだ。

 鉄板から肉がキレイになくなった頃、代わりに得られたのは圧倒的な充足感。疲労と言うには少し大げさだが、あごの筋肉をしっかり使ってモノを噛んだ、飲み込んだと意識したのはいつ以来だろうか。普段スーパーで買って食べているぺらっぺらな豚肉のスライスや水っぽい鶏肉では絶対に得られない充実感がある。ここまで違うと普段食べている肉で本当に栄養が摂取できているのか心配になるレベルである。

ここ数年は自分の中で健康志向が進んで野菜が増え、普段の食事でも肉は脂身の少ない鶏肉をメインで食べるようになった(牛肉が高いからという理由も当然ある)。
しかし、やはり密度が高く厚みのある牛肉を食べると感覚が違う。腹持ちもいいし身体に熱が入っている気がする。牛肉が世界中で愛されている理由はこれなのではという気がしてくる。

 帰り道でとあるグルメ漫画のセリフを思い出す。
腹を空かせた若者を見かねた料理屋の店主がトンカツを食わせてやる話。
「トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。それが人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。」

トンカツはステーキとはまた違った魅力に溢れている。共通するのは肉の厚みと噛み応え。ステーキの持つパワーはすごいが、毎週食べるならトンカツも素敵だ。とにかく、このどちらかをいつでも食える、誰かに食わせてやれるようになりたいなと思いながら家路についた。いい夜だった。

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