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資本主義は宗教か? たとえ宗教だとしても強靭な現実として振る舞う資本主義の中で、幸福に生きるにはどうした良いのか?

なんだかいいアイデアの原型になるような、そんな思い付きがあった気がしたのだが、それらをどのように連結すれば論理的に語れるのか、説得力を持たせられるのか悩ましい。もう途方に暮れてしまってしょうがないので、とりあえず断片的なメモのような形式で、考えながら書きなぐってみる。書きなぐっていたら、最初に思いついたはずのアイデア忘れた。


柄谷行人はトランスクリティークの冒頭で、マルクスが宗教を対象として、やたらと時間をかけて考えていることに注目している。マルクスの強力な相棒エンゲルスが、あっという間に宗教のことを蒙昧の思考と切り捨てるのに対し、やたらとマルクスはそのことについて考えるのである。

資本主義の宗教性とは何かを考える前に、宗教とは何かを考えなければならない。宗教自体の定義が定まっていないと、何が宗教的なのか、宗教性とは何かも語ることができない。

宗教とは物語による世界説明の言語ゲームである。
宗教と教義を持つ。
宗教とは信仰である。

資本主義が深化した社会とはどんな社会で、その中で幸福に生きるにはどうすればいいのか。

そもそも幸福とは何か?個人的な欲望と社会的な欲望が、対立関係になることは十分に考えられる。幸福とは主観であり、個人にきわめて依存する。

良い戦略を立てるには、まず状況がどうなっているかを知ることから始めなければならない。そのうえで、私にとって重要な価値とは何かを思索し、着手における優先順位を決定する。これは、自分が持つ資源の認識でもあり、資源配分におけるルールの制定でもある。

資本主義の宗教性については記述することができたと仮定しよう。しかしながら、我々の問題は、資本主義が宗教性の塊だと認識したのでは、全く解決されない。何故なら、私たちの生きる日本社会は、もはや資本主義の浸食されていない場所を見つけるのも難しいのである。日本以外の社会でも状況に変わりはなく、共産主義を標榜する国家でさえも、資本主義的なシステムを破棄することはできていない。資本主義はもはや強固な現実であって、それを完全に破棄することは不可能な域に達している。

資本主義は人類の発明した教義として最も強度の高い原理である。それに対抗しようと思うのならば、同じくらいに原理的な、強度の高い、人間の欲望、社会的欲望にも、個人的欲望も、ブラックホールのように飲み込める何か具体的な発明が必要である。

貨幣はあらゆる価値の特権性を融解させ、その身のもとに並列化する機能を持つ。すべては値段という価値のもとに集約され、そこから逃れることを許さない。

資本主義とは、貨幣の下に万人を平等にするもの。

貨幣というゼロ記号が欲望の整流器となっているような社会。

資本蓄積の動力というのはフィジカルなものではない
つまり 欲望ではないと思う
そこには メタフィジカルな欲望というより欲動がある
要するに 交換可能性を貯めたい 権利を貯めたい 欲動である
フロイトが 死の欲動に関して考えた時 それがメタフィジカルになってしまうと思ったのも無理はない
資本主義社会では皆 物質欲に溺れて良くない、これではいけないとか言って、それで 宗教に向かう人たちが いる
しかし 資本主義 ぐらい 宗教的なものはない
その意味で マルクスは一貫して宗教批判を続けたと思う

宗教の中でうまく生きざるを得ないとしたら、どの時代に生きた誰を自らの師としたらいいだろうか。やはり、西洋の歴史の中でも、とりわけ宗教色の強い時代である中世に生きた人だろうか。



資本主義について考えようと思ったら、マルクスは避けては通れない。ただ、マルクスの著作は正直読みづらい。翻訳的な問題なのだろうか、社会的生産様式がどうたらこうたら、社会的必要労働時間など、とにかく謎の漢文的単語のラッシュで混乱する。だが、それ以上に、彼の思考にうまく接近できない何かがあるように思う。

当然のことながら、彼の生きてきた時代、そこで支配的だった思想や状況と、今私の生きている日本とでは、様々な意味で距離がある。政治、経済、軍事、社会、宗教すべてが遠い。

キリスト教的前提を持たぬこと、それこそが、私が哲学に接近していけないと感じることの、一つの重要な要素でないかと思っている。というのも、今キルケゴールの死に至る病の解説書を読んでいるのだが、この本の目的は、大枠を提示すると二つ目的があるらしい。一つは、読者をキリスト教の信仰へと向かわせるため、その啓蒙として。もう一つは、ヘーゲル批判だそうである。こう述べると、ヘーゲルはキリスト教的信仰の外側で思考したのかと思われる方もいるかもしれないが、全くそうではなくて、むしろヘーゲルもゴリゴリにキリスト教徒だったらしい。

そこでふと思いつく。ヘーゲル哲学という母体から生まれた子供たちの代表は主に二人いて、一人は上記したキルケゴール。もう一人がマルクス。

マルクスは、自分はヘーゲルの弟子だとかなんとか言っていたような気がする。となるとヘーゲルの思考に影響される形で考えているはずである。

ヘーゲルは敬虔なキリスト教徒である。ということは、ヘーゲルの思考はキリスト教的思想に影響されながら考えたはずである。

マルクスを学ぶことは、ヘーゲルを学ぶこと。ヘーゲルの何を拒絶して、何をその身にしたのか。

マルクスはイギリス経済学の何を拒絶し、何を摂取したか。

マルクス ユダヤ人 

ヘーゲルもまた、ドイツ観念論の系譜にある人であるから、カント、フィヒテ、シェリングの大雑把な連環くらいは抑えないとならないかもしれない。


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