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哲学の2つの意味

コミュニケーションの困難を語る上で、代表的な困難は、言葉の多義性によるものだと言い切ってしまうことは不用意なことだろうか。

不用意なことだとしても、これが極めて重要な論点であることは、同意してもらえると思う。

すでに私がコミュニケーションという単語で形容、想像している情景と、読者が想像するコミュニケーションでは齟齬があるように、「哲学」を語るときにも同じように、齟齬が発生するのである。

それはいったいどのように発生しているのか。
なぜ、発生しているのか。大雑把に分類してみようと思う。

人が哲学を語るときは、雑に考えれば二つほどにイメージの方向性がわかれる。

一つは「哲学する」ことで、もう一つは「哲学の研究」をすることである。

「哲学する」とはいかなることかというと、根源的な、厳密な、執拗な思考のことを言う。

ありふれた会話の中で出てくるような、そんな哲学の意味は大体これである。ありふれているが、しかし、哲学の歴史から振り返ってみても、最も重要な思考である。

対象はなんでもいい。対象を限定しないことが、哲学することのすばらしい利点だ。これ以上語ると、話がほつれそうなので、二つ目の哲学者の研究をすることに行く。

哲学の研究をすることは、アカデミックな世界を想像してもらえるとわかりやすいか。一人の哲学者の人生を追ったり、書いたものの思考の中に深くもぐりこんだりする。

哲学者といえども個人で完結しているわけではない。時代的な制約、場所による制約、肉体による制約、情報流通的な制約。それら関係がありそうなものを研究する。

これが二つ目の哲学。

二つは相互に連関し、影響を与え合っている。


話は少し変わるが、ネットで見かけた、ある哲学書を読んだであろうレビュアーがこんなことを言っていた。

学者は過去の哲学者の研究ばかりしている。これは哲学ではない。今要請されていることに対する思考ではない。骨董品ばかりの品評会に終始するな。こんなものが哲学のメインストリームなら、哲学という営みが支持されることは今後一切ないだろうと。

これは典型的な、哲学することを求めているタイプの人の言説だ。

哲学することを強く求めて学者の本を開くと、確かにこうして落胆することの可能性は高い。

学者は哲学の、哲学者の研究を、哲学の研究の研究の、その歴史を研究しているのであって、その本を開いた人が強く欲している、何かしらの対象に対して哲学しているわけではないからだ。

特に情報流通のスピードも規模も格段に上がった今、学者は非常にニッチな情報を追って、それを発表することが多いので、こうしたミスマッチは結構起きる。

思考の対象が同じでも、納得がいかないような、もやもやした気持ちを抱えることは多々ある。

哲学的思考とは、問いを問い、迂回していくことでもある。

だから、提示された回答に納得がいかない、これでは足りないと感じる。

しかし哲学することだけを追い求めても、大して哲学的な思考はできない。

哲学者の研究を経ずに行う哲学は、偏狭な独断論や、謎言語で装飾され、やたら複雑な手続きを要請する体系を生み出すだけに終わる。

過去を顧みず、歴史という地面に立たない思考は、浮遊して、ただ消えるだけである。

「哲学すること」は「哲学者を研究すること」と並行して行っておかないと、力のない、哲学しているはずなのに、思考のないものを量産するだけである。

自分の求めていた対象に対しての哲学は、自分が行うしかないのである。

慎重に、かつて哲学した人たちの文献を参考にして。

自戒を込めて。



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