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第八十四景

目覚ましの音で目が覚めた。そういえば今日は山に行く予定だった。iPhoneの画面には2:24と表示されていた。眠気と戦い、一瞬負けそうになるが、意を決して布団から抜け出ると、冷気で気持ちが引き締まった。昨日のうちに準備しておいたザックを担ぎ、下の階へ降りる。冷たい水で顔を洗い、念入りに歯磨きをした。山登り用の服に着替えて、家から出た。月の明かりは無く、辺りは闇が深い。何かが見えないか、目を凝らすが何も見えなかった。車庫のシャッターに手を掛け、引き上げるともう後戻りできないような気がした。ドアを開け、その外からエンジンをかけると、車庫の中に駆動音が鳴り響いて、暗いせいだろうか、少し驚いた。車を発進させると、黒い地面が見え、凍結を警戒したが、水のしぶきが上がる音がした。調子に乗って、スピードを出したけど、所々雪が残っていて、急ブレーキを踏んだりした。音楽を流し、口ずさんだ。国道に出たら、あとは順調だった。群馬へ向かうには、山を越えねばならず、そこだけは高速道路に頼ることにした。関越トンネルを抜け、目的地近くのインターチェンジで降りると、暗いながらも秋のような景色が広がっていた。信号機を見て、違和感を感じたが、横向きだった。伊香保温泉への坂道を上がると、ふたりで来たときに見た風景が、ちらほらとあった。懐かしさに浸っていると、坂道でエンジンを吹かし続けるとする嫌な臭いがしてきた。いつもの事だと思いながら、ヘアピンカーブを曲がると、ナビの地図に展望台らしきところが映った。温泉街が見えると思い、車を停め、そして降りた。暗闇の中に、何か分からない光が点滅していた。写真に収め、車に戻ると、足元で軋む音がした。展望台は張り出していて、木で出来ていた。車に乗り込み、更に曲がり続ける。車の中から、はためく旗が見え、風が強い事が分かり、少し心配になった。そんなことを考えていると、目的の湖の近くの駐車場の近くに来ていた。唐突にナビが終わり、電灯の明かりを頼りに駐車場を探して、車を停めた。まだ陽が昇らず、途中で買ったおにぎりを貪り、仮眠しようかどうか迷っていると、栃木県ナンバーのミニバンがやってきて、4人の若者が降りた。先導してもらうことを思いつき、急いで靴を履き替え、彼らの準備が終わるのを待った。ほどなく進み始めたので、車から降り、軽く準備体操をして、あとを追った。予想通り同じコースで、前を行く彼らのヘッドライトの明かりが見えた。序盤から、急な登り坂の連続で、ひたすら進んでいると、すぐに彼らに追いついてしまった。あいさつをして、脇をすり抜ける時に彼らの顔がライトに浮かび上がったが、思ったより若かった。更に登り続けて、上の方を見ると、山の切れ目の向こうに空が見えた。この風景は、山頂近くに来ると見える風景なので、数分で頂上に着いた。申し訳程度に雪がうっすらと積もった山頂には、出てきた太陽で濃いオレンジと薄いオレンジに浮かび上がったゴンドラが見えて、不気味さと綺麗さが混ざり合ったような色をしていた。しばらく眺めて、展望の良いところで、遠くの山を見渡すと、富士山が見えた気がした。いくつかの山を登ろうと思っていたので、下りに入った。細かい砂は滑りやすく、何度か転びそうになった。下っていると、徐々に明るくなって、凍った湖が見えてきた。凍った湖面に立ちたくて、小走りに、でも慎重に下ったが、湖内は立ち入り禁止だった。2つ目の山を登り、3つ目の山を登り、4つ目の山の急な上り坂を登っていると、今日は土曜日で休みで、月曜日には仕事がまた始まり、もっと言えば、離婚歴があって、昔は大切な人がいて、今はいなくて、もっと言えば、生きていることを思い出した。そんなことを忘れるくらい無心で本能で登っていたみたいだ。そのまま忘れてしまって、山と同化出来たらいいのにとも思ったけど、辛い思いが無かったことになるのも、もの悲しく、やっぱり覚えていたいんだなとも思った。4つの中で、一番急な坂を登って辿り着いた山頂からは、きれいな景色は見えなかった。でもどこか清々しかった。

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