見出し画像

第四十六景 長い間思い出さなかった話⑤

翌朝、宿を出て近くにある川床に向かった。彼女とどこかへ出かけるのは、これで最後だと、どこか確信めいたものがあったので、事あるごとに写真に収めた。

写真を多く撮るのが珍しかったのか、彼女は不思議がった。悲しい気持ちと不安な気持ちが混ざり合ったような表情で写真を撮り続けた。

そのあと、有名なお菓子工場に行き、お菓子をお土産に買った。暗くなった車内で、彼女の手が僕の太ももをとんとんとした。手を繋ぎたい時の合図だった。握り返した手はカサカサしていたが、それが彼女の手だった。

数週間後、同期の女性に関係をはっきりしてと言われたので、彼女に理由も言わず、一方的に別れのLINEを入れた。重要な事は直接言えないのはいつまで経っても変わらなく、とても狡い行為だとは自覚していた。電話も掛かってきたが、もう付き合えないという一点張りだった。

お互いに借りていたものを返すために、彼女が家まで来てくれた。久しぶりに見た顔はどこか緊張していて紅潮していた。僕も同じような表情だったのだろう。

彼女は「あんまりだよ。いきなり過ぎるよ。」と言ったが、涙は見せなかった。そのあとはもう連絡を取ることはなかった。電話番号も消し、アドレスも変え、LINEもブロックし全ての連絡手段を遮断した。

ちゃんと理由を話せばよかった。それでもなお嫌われることを嫌がったのだろう。自分が最低なことだけは分かっていた。罪悪感に苛まれるくらいなら、全て打ち明けて嫌われるべきだった。

彼女は僕の職場の取引先の会社に入社したので、営業職に配属された彼女は時々、職場に来るようになった。6年の月日など嘘のように目を合わせることさえ拒んだ。

以前みたいに目を合わせて笑い合う関係に戻れたらよかったのにと思ったが思うだけだった。


そんな状態が2年続いたが、彼女は別の地区を担当することになった。どこかでつながっているとまだ思っていたが、それで完全に切れてしまったように感じた。


風の便りで彼女が結婚したことを聞いた。

車に乗っていると見たことのあるシルエットの妊婦らしき女性が信号待ちをしている。彼女だった。彼女の顔を食い入るように見つめる。あれほどぶつかって欲しくなかった視線がぶつかって欲しいとさえ思った。

彼女はそんなことなどお構いなしに明後日の方向を見ていた。視線がぶつかることはなく、そのまま通り過ぎた。サイドミラーの中の彼女の姿が徐々に小さくなっていく。

僕は彼女の姿が見えなくなるまで目を離すことは出来なかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?