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「また会ったらさ、おしゃべりしようね」

娘が不登校になってみて、不登校の子どもを持つ親としての気持ちが分かった。スクールカウンセラーや相談員や、担任の先生と話す。そんな時間を設けてくれてありがたい。でも思った。当事者でないかぎり、この気持ちは分からないだろう、と。先生も養護の先生も大変だと思う。いや、大変だ。先生が電話をかけてくれる。「どうします?今月は(相談は)必要ですか?」と訊かれる。『…必要ですか?』か。先生に気持ちをぶつけたくなる。でもそうじゃないだろ、と気持ちを立て直す。わからない、どうしたらいいのかがわからない。不登校と括ったとしても、その不登校の中身は様々で、明確な答えがないからむずかしい。軸はこっちにしかない。

今月はがんばって、不登校経験者のママ友と話しをしようと思う。私も殻を少しずつやぶっていきたい。そうやってから、先生と話してみよう。こんな方向性でやってみたいと思う、と話せるように。

なんてことを考えながら。
世の中、「本当」は分かりっこないことばかりだったと気づく。今それぞれのかたが、抱えている苦しみは、だれかと比べられるものではなくて。その痛みも、本当のところその人にしか分からない。同じ病になったことがあったり、同じような悲しみや苦しみを感じていたとしたら、心からの苦しいよね、痛いよね、悲しいよね、とは言えるのかもしれない。でも、そうそう全てを経験している人なんていない。ほとんど、「本当」には分かりっこないんだった。でも。そうであっても、気にかけてくれるひと、というのはちゃんといることを知っている。その気持ちはとても温かく励まされるんだった。

近所の子どもが話しかけてくれる。
娘よりもひとつ年下の男の子。
いつも話しかけてくれる。
「いつもおしゃべり、ありがとうね」
ってこの前言った。
そしたらあの子、こう言った。
にっこり笑って、こう言った。

「また会ったらさ、おしゃべりしようね」