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『ハリネズミと金貨』

六年前、カフェの店主に手紙を書いた。
前の晩に、ちょっと泣きながら。
店主のブログを最初から読んで、
心に残る言葉をメモして、
何年か分の店主の言葉をかみしめ。
感謝の言葉を手紙に書いた。



ある日、そのお店の横を偶然クルマで通り過ぎ、私はひとめぼれした。緑色の外観にマトリョーシカのイラストが描かれた看板。とっても気になる!お店の情報を早速チェックするとロシア料理のカフェとのこと。その日から店主のブログを欠かさず読んだ。

小さな子どもの手をひいて、
どうぞ、あそびにきてくださいね。

ブログにたびたび書かれるこの言葉。
私はこの言葉に心うたれた。

小さな子どもとの生活というものは、自分の時間がない。子どもを産んだら、いいお母さんになれるもんだと思っていたけれど、そんなもんではなかった。余裕というものはなく、私は「きーっ」となりがちな母親だった。だからこの言葉がありがたかった。この言葉を目にするだけで、この町にあのお店があると思うだけで、ホッとした。

毎月毎月、カフェではいろんな企画がある。
小さなチラシはデザインが毎回すてきで、ワクワクした。本当に数えるくらいだったけど、子どもと遊びにいった。



店主はいったいどんな方なんだろう、とワクワクしながらドアをはじめて開けた日。なんというか、こびることのない(という言い方もあれですが)さっぱりした気持ちの良い女性がいた。

店内はこれまたかわいかった。店主はロシアが好きでたまらないのだろう。いろんなマトリョーシカがたくさんあって、壁面にロシアの本や絵本が飾られている。店主の大好きな世界にうっとりする。…私はカフェでロシアンティーやコーヒー、時々ケーキをいただいた。お金ないしな、と思っていたけれど、ちゃんとご飯も食べたら良かった。

ある日、閉店することを知った。

カフェ最終日、店主に渡す手紙をカバンに入れて、私は当時4歳の息子と2人で行くことにした(ゆっくりしたかったから、当時1歳の娘は夫に預けて)。

店内はにぎわっていた。私たちは丸い緑のテーブルに座る。今日はたくさん食べるんだ!ピロシキ、ボルシチ、息子が食べたいと言ったもの。どんどん注文する。店主はマトリョーシカで遊んでもいいよ、と言ってくれた。いろんなマトリョーシカで遊んだ。豆粒くらいのマトリョーシカもあってびっくりした。

息子がマトリョーシカで遊んでいる間、壁面に飾られた絵本を私は次々手に取る。『ハリネズミと金貨』という絵本があってページをめくる。店主が話しかけてくれた。
これ、とてもいい絵本なのよ、と。

本の扉にはこんな紹介がのっている。

― ハリネズミのおじいさんが、つぎつぎとであう動物たちは、みんな思いやりにあふれています。本来のお金の意味、人と人が寄り添って生きることの意味を思い出させてくれるロシアのお話です。

『ハリネズミと金貨』偕成社
扉より
※原作はウクライナの児童文学作家のオルロフさん



料理はどれもおいしかった。ボルシチの赤さに息子は驚きながら、おいしそうに食べた。コーヒーがおいしくて、二杯おかわりした。あんなにおいしいコーヒーは初めてだった。店主の娘さんが焼いたというケーキもおいしかった。どれもこれもおいしくて心がこめられていた。

お会計を済ませ、いよいよ手紙を渡す時。私は涙がこらえきれず、泣きながら手紙を渡した(息子はおそらくまたお母さん泣いてる、と思ったことだろう。いい涙だから、許してと思う)。店主はそれにつられて泣くタイプではなくて、さっぱりとしていた。そう振る舞っていただけかもしれない。私は手紙を渡せて大満足で、泣きながらスミマセンと笑い、息子と手をつないでお店を出た。

すぐに後ろで扉が開いた。
「これ、持ってって」
店主が絵本を差し出してきた。
『ハリネズミと金貨』!
「いいんですか」と驚く私に
「持ってって」
店主は笑顔で渡してくれた。
絵本を胸にかかえる。



しばらくして、店主からお返事がきた。
あなたからお手紙をもらって、
あのお店をやって本当に良かった、
手帳にはさんで持ち歩いてるのよ、
と書いてあった気がする。
私の気持ちは届いたようだ。

いつも読んでいたブログはなくなり、お店はある日取り壊されていることに気づいた。今は誰かの新しい住宅になっている。

ああ、ない。

『ハリネズミと金貨』を時々読む。

絵本を開けばあのお店を、あの店主を思い出す。ボルシチの赤、キッチンの壁が赤色だったことも思い出す。店主は今の状況にどんなに心を痛めていることかと思う。

でも、きっと。店主はロシア料理を作らずにはいられないはずだ。きっとうずうずしているはず。また食べたい。また味わいたい。店主の世界を。

絵本を開けば、いつもいつも思い出せる。
書きながら気づいた。
この絵本の中に、あのお店はあるんだ。

またあの店主に会えますように。