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匿名でネットに書くということ~47日目

 真偽や詳細はわからないが、ネットでいろいろ書かれていたある方の死が報じられていて、いろんな意見を見ていたら眠れなくなった。
 ※11時台に一部追加

傷つき、傷つけられる怖さ、はもともと人生だが

 自分は今、ネットに書く怖さを日々自覚しながら、それでも止められずに書いている(書くのは何らかのプラスもあるからだが)。怖いのは、自分が書いたことで見知らぬ他人を傷つけること、逆に、書いた自分がそれを読んだ見知らぬ他人に傷つけられること。
 そして、匿名がはらむ怖さ

 前にも書いたが、人間の表現行為自体が、自分や他人に何らかの反応を起こさせるものだと思う。それが喜びや楽しみのこともあるだろうが、多くの場合、表現する人間が心の“すり傷”を負いながら、その表現に触れた人間にも“すり傷”を負わせるものだろう。傷を負い、負わせるリスクは回避できないが、表現無しに他人と接することはできず、生きることは傷つくことでもある。
 さらに言えば、人間が生きること自体、傷つけ合うことを前提に、それができるだけ(戦争などは別として)致命傷にならないよう、暗黙のルールのもとに戦うことかもしれない。

図らずも匿名となったこの日記で

 書くこと自体が自他を傷つけることである、と、自覚したうえで、自分自身が書いてきた、図らずも匿名となってしまったこの日記を振り返ることで、匿名のはらむ怖さを考えてみる。
 たかだか数十日書いているだけのこの日記ですら、匿名だから自分の弱さをさらけ出せた利点(?)もあれば、ある人たちに対する、あまりよくない感情を書いてしまっている欠点もある。
 後者を反省しながら思い出せば、賭け麻雀で辞職した人、新聞のある日の社説を書いた人、一部の芸能人、スーパーにマスク無しの子ども3人を連れてきて走り回らせていた人、無責任に甘えてきた人、道路族、伝わらない人、身勝手な人……か。「罪を憎んで人を憎まず」のつもりだが、その人への悪口、批判になってしまっている部分もあるだろう。と、開き直ってはいけないが、それでも相当気を遣って書いている「つもり」、でも、どこかで誰かを傷つけてはいないか、とびくびくしている。
 (後で、アーカイブも含めて表現を変えるかもしれない)

知り合いに公開も考えていた当初は慎重だったが

 都の緊急事態宣言初日に書き始めたこの日記は当初、自分のSNSなどの知り合いに公開することも考えていた。プライドもあり(!)まず3日坊主にならないことを確認して、途中からでも公開するかと。
 書き始めたきっかけと一番の目的は、初日にも書いたが「書く手を止めない」だったし、書き続けることで、そのうち、きちんとしたブログにつなげていこうかとぼんやり思った。なので、知り合いが見てもおかしい人間と思われないよう(見知らぬ人に向けて、今でも、一応そうしているつもりだが)慎重に書いていた。当たり障りないというか、ある程度楽しさを前面に出して。何となく匿名は続けて。

“開き直り”匿名以降、ややタガが外れてくる

 日記を振り返ると、その慎重さを解き始めたのが、12日目のようだ。
コロナ時代に増える私の“すり傷”~12日目(04/19)
 その日は「今日の日記は後日削除の可能性もある。匿名だから書けることもある。」とある。「不要不急」のイベント自粛が各自の判断に任されていたころの知人とのぎくしゃくが最近あったと書き、愚痴と共に、自らの内面の弱さを吐露した日だ。
 それが、14日目には、スーパーで見かけた他人への愚痴になった。
言いたくないが…心の叫び~14日目(04/21)
 この後、もういいや匿名で、と“開き直り”をしたためか、自粛生活のストレスを言い訳に愚痴も増えるわ、最初は多分政治のことは書かないと言いながら、社会や政治のことも書き始めるわ、になった。ネタ切れもあろうが。
 
 匿名の方が、自他に向けるネガティブな感情は表現しやすい。当たり前のことだが、自分の日記がそういう流れになっていることを確認し、それを再認識した。他人への批判でない方の、自分の内面の弱さの吐露、にしても、知り合い相手だと「大丈夫?」と言ってほしいがための構ってちゃんになるが、匿名なので「この人、大丈夫かしら」で放置される安心感もあるし(でも、読んでくれ、の構ってちゃんではある)。

自分を表現したい小心者が持つ“武器”

 自戒しながらだが(言い訳だが)、思い切って悪口を書かせてしまう怖さを、匿名でネットで書くことは持っている。自分はある程度(100%とは思っていない)安全圏の、傷つけられないところにいて、他人を傷つけられる武器を手にしているのだ。
 自分を表現したい、構ってちゃんの小心者が。

 その武器を凶器に変えるかどうか。
 社会問題に対して匿名で発言するのは、市民の武器としてある程度認めたいと思う。多少ズルいけど、権力や犯罪などに対する世論としての使い方は、まだある。
 だが、個人攻撃は凶器。とてもズルい、言い訳の聞かないもの。対面なら、実名なら、ともかく、逃げてしまえる無責任。

途切れ途切れの短文の危うさ

 ※24日午前11時追加
 自分は数十日間、それなりの長さの駄文を書き散らしてきて、匿名ながら、その“人格”がある程度立体化していると思う。全文読んでる暇な人は自分くらいと思いますが(それでいいです)。

1.短文で書くには、実は頭の良さが必要。俳句とか短歌とか考えれば。
 なぜ、自分の日記がどんどん長くなるかというと、思いつきで書いているのもあるが、短くまとめる方が頭を使うからだ。短いと、攻撃か守備、あるいは賛助などの一点突破になりがちだから、誰かを責めた後に「そうは言っても」というフォローを入れるなど、複数の要素を入れにくい。

2.短文を途切れ途切れに出す行為だと、言い方が変かもだが、自分の人格統一を図る必要がない(だから物足りなくて、さらに攻撃的になるのか)。
 自分は一回一回の日記の中でも一応つじつまが合うように考えている(途中で投げ出すことも多い)し、この数十日間でこれまで自分が出してきた人格をできるだけ裏切らないよう、壊れる時は壊れると言っている。
 人格が統一されていなければ、無責任に走るのも簡単かもしれない。
 人格統一を図る行為自体に、他人に見られても大丈夫な、まっとうな人格を形成しようという作用が含まれるとも考えられる。

 そして、どういう道具を、武器を使うかどうかはさておき、他人を誹謗中傷してはいけない、という「ちょっと考えればわかる」ことが、わからない人は残念ながらいる。※追加ここまで。

自分はいざとなればネットから逃げます

 なので、自分も特定の個人攻撃はしないことにする。してたらごめんなさい。

 で、ネットは便利だが怖いので、私はいざとなればネットを捨て、逃げます。いつでも逃げられるよう、“中腰”で、この日記を書いています。腰を据えてなくてすみません。万が一追いかけてきたら、きちんと撃退します。

 逃げるは恥だが役に立つ、ってあったのを思い出す。逃げてほしかった、と思う。無責任でごめんね。ご冥福を祈ります。

 皆様のご健康を。

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