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シッティングバレーを知って

いつも行くジムではシッティングバレーのアスリートチームが練習試合をしていることがある

今調べてみて初めてそれをシッティングバレーと呼ぶことを知った
文字通り、座ったままお尻を床につけて戦うバレーのこと

一階が体育館、二階はトレーニング器具やランニングスペースになっていて、吹き抜けなので上からそのシッティングバレーの試合を覗けたりする

先天的に車椅子で生活をしている人
後天的に足が不自由になった人
どんな過去があって今ここで試合をしている彼らがいるのだろうと
ジムでバイト中の友人とそんなことを話しながらランニングコートをゆっくり歩いた

友人が"かっこいいよね"と言った
全くその通りだと思う
だって本当にかっこいいから
わたしは続けて、じゃあかっこいいと本人に言えるかどうか、という話をしてみた

生まれつき車椅子でスポーツを始めた人はその"かっこいい"を真っ直ぐキャッチできるかもしれないけれど

事故に遭われて、もしくは何かの病気の影響で車椅子が必要になって
それがまだ記憶に浅い、そんな人からすればわたしたち(身体に不自由がない)からの"かっこいい"はどこか上から目線で調子の良い言葉に聞こえてしまうかもしれない。その人自身に不自由がなかった日々の記憶が残っているから。

でもこれだってわたしの憶測、想像にすぎなくて
その痛みを心から理解することは当事者にならない以上わかることはできないのだと思う

自分は恵まれているな、も違ければ
かわいそうだな、も絶対に違う
だからといってわたしとなんも変わんない、と思うのも違う

本当に人それぞれ、その人のストーリーがあって
それはスポーツに限らず、盲者も聾者も精神的な疾患を持っている人も
もっといってしまえば人間生きてれば誰しもそう

100%は無理だけど、その人を
"わかりたいって思うこと"
それだけは諦めたくないね

それと同時に
自分をわかりたいと思ってくれている人
も、大切にできる自分でありたいな

友人が仕事に戻った後
心の中でそう感じたこと、後でnoteに書き留めようと思ったのでした








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