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「プラハ宗教改革-1.0」

本日は、チェコ🇨🇿の世界遺産【プラハ歴史地区】「フス戦争」についてお話していきます。

数多の歴史的建造物を残すチェコの首都「プラハ」は、世界で最も美しいと評される街の1つです。

14世紀半ば、ボヘミア王カレル1世が神聖ローマ皇帝「カール4世(※ドイツ語ではカール)」として即位し、プラハは「神聖ローマ帝国」の首都となります。

芸術や教育を重んじるカール4世は、プラハを帝都としてふさわしい都市にすべく、各国から芸術家を招聘し、旧市街の隣に新市街を建設しました。

新旧の両市街に、小市街を加えたプラハの街並みは、実に全体の40%に相当する建造物が歴史的・文化的価値が高いと認められています。

カール4世の治世下では、ボヘミア黄金時代の象徴である「プラハ城」や、自身の名を冠する「カレル橋」に加え、「ゴシック様式」を代表する「聖ヴィート大聖堂」などが再建されています。

プラハ城とカレル橋
聖ヴィート大聖堂

旧市街の広場には、「天動説」の概念をベースに設計された「プラハ市庁舎」の天文時計や「ティーンの聖母聖堂」、さらには「ヤン・フス」の没後500年を記念して建設されたヤン・フス像が立ち並びます。

ティーンの聖母聖堂とヤン・フス広場
プラハ市庁舎

プラハ大学の教授であったヤン・フスは、ルターによる宗教改革の前哨戦とも言える「フス戦争」の発端となった人物です。

中世の時代、財政難に陥っていたカトリック教会は、教皇レオ10世がフッガー家の当主「ヤーコプ・フッガー」に入れ知恵される形で、庶民に“罪のゆるし”を与える「免罪符」を販売していました。

庶民が「ラテン語」で書かれた聖書を読めないのを良いことに、清貧であるべき聖職者が富を搾取しているカトリック教会の腐敗を嘆いたフスは、免罪符に反対する改革論を説きます。

フスに賛同する「フス派」はカトリックを真っ向から批判し、聖書をチェコ語に翻訳するなどして次第に異端扱いされていきました。

やがてフスは「異端審問」にかけられ、“異端であることを認めれば助命する”という要請を拒否し続けて、ついには処刑されてしまいます。

“真実は勝つ(Pravda vítězí)”という最期の言葉を残して天に召されたフスの処刑は怒りを呼び、さらなる対立を生みました。

フス派の一派が市庁舎を襲撃した「プラハ窓外放出事件」はその契機となる事件で、この時からボヘミア全土を巻き込む「フス戦争」へと発展していきます。

プラハ窓外放出事件

フス派勢力に対して、フス派を容認しないカトリック、神聖ローマ帝国との間で起こったフス戦争は長期戦を極めました。

大半が農民兵ばかりのフス派勢力を束ねていたのは「ヤン・ジシュカ」という人物で、卓越した戦略家のジシュカを中心に、訓練された騎士相手にも一時は連戦連勝を重ねるなど奮闘しました。

ジシュカが戦術に用いた、チェコ語で「笛」を意味する「ピーシュチャラ(pišťala)」は、英語読みで「ピストル(pistol)」の語源にもなりました。

ヤン・ジシュカ

15年におよぶ戦争の末、神聖ローマ皇帝ジギスムントが根負けする形で「バーゼルの誓約(Compacts of Basel)」が締結して、フス教は晴れて容認されることになります。

既に疫病で亡くなっていたジシュカは、フス戦争における英雄として称えられますが、近年でもジシュカを主人公とする映画が公開されるなど、チェコ人にとっては未だに誇るべき存在なんですね。

カトリック教会はその後も、ルターの宗教改革によって大いに揺れることになります。

フスが最期に発した“真実は勝つ(Pravda vítězí)”の言葉は、現在も国民のアイデンティティとして、チェコ大統領府の旗に記されています。

“真実は勝つ(Pravda vítězí)‘’

歴史について学んでいると、「‘’天網恢恢疎にして漏らさず‘’とはよく言ったものだな」と、感じることが私はよくあります。

1968年の「プラハの春」に始まり、チェコ共和国初代大統領「ヴァーツラフ・ハヴェル」を中心とする「ビロード革命」に帰結した民主化運動も、きっとチェコ人に根付いた精神性が成し得た快挙なのかもしれませんね。

【プラハ歴史地区:1992年登録:文化遺産《登録基準(2)(4)(6)》】

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