GWは、映画「悪は存在しない」に引っ張られる
予備知識ゼロで見に行って大正解だった。
美しい森の映像や、鳥の羽、鹿の骨、水の流れなどのモチーフ、登場人物たちの服や帽子の色、何とも言えず迫力ある石橋英子の音楽、音楽のない無音の時間、銃声や薪割の音、そしてびっくり過ぎるラストを見た後、
「なぜ?」
と今までの車のなかでの会話や家のなかでの親子の会話を手繰り寄せるようにひたすら思い出そうとする。
残りのGWはついつい映画のシーンを遡ることに頭と気持ちが引っ張られてしまった。そういう意味で1本だけで「お腹いっぱい」。
GWの昼間のミニシアターはほぼ満席。
びっくり過ぎるラストシーンのせいか?
映画が終わっても観客はなかなか椅子から立ち上がれず、ロビーに貼られた新聞や雑誌の映画評の解説切り抜きに群がる人多数…(驚)
私も…どこかで答え合わせがしたいけれど、理屈では解釈出来なさそうな気がしてそのまま映画館を出た。
人間が、森から見られている?
山歩きが好きな私は、東京に住んでいた頃は八ヶ岳にも何度か行ったことを思い出す。
ひと気のほとんどない山を仲間と数人で歩いていると、ふと静寂に包まれる瞬間があり、誰もいない森のなかなのに「誰かに見られている?」と感じることがある。
それは、風に揺れる木の枝や葉っぱや、不意に現れる花や、踏みしめた時に思いがけず大きな音がして驚かされる木の枝などの「ここにいます」という存在感なのかもしれない。
鹿の顔
山の中でたまに鹿や猿を見かけることもあった。
「あちらが先に私を見つけた?」
と少し怖いゾクゾクするような山の感じを思い出した。
八ヶ岳で鹿の専門の方から話を聞いたことがあり、「鹿は一夫多妻制」で「人相ならぬ鹿相(?)つまり顔が一匹ずつ全然違う」ので、だいたい顔を見たらどの個体かわかる、というお話が印象に残っている。
ラストシーンで、撃たれた鹿とその子鹿がじーっとこちらを(登場人物の花を)見つめるのだが、おそらくあの鹿はあの場所を縄張りとしていて、水を飲みに来たのだろう。
「ここにいる」という鹿の存在感に心が揺さぶられた。
青いジャケット
森のなかで花が着ている鮮やかな青いジャケットと、東京から来たグランピング場を計画している会社の社員の男が着る赤いジャケットのコントラストが、セリーヌ・シアマ監督の「秘密の森の、その向こう」を思い出させる。
しかも森の中に入っていくうちに、現実の世界なのか?夢のなかの出来事なのか?時間も空間もその境界線がはっきりしなくなる、というところもよく似ているなぁ、と。
ただ、同じ色彩のコントラストでも、「秘密の~」の方はもっと幻想的で明らかにヨーロッパ(フランス)っぽい。
「悪は存在しない」の方は日本映画っぽくもない印象の割に、登場人物はとても日本人っぽい。
うどん屋さんとか、集会所や学童クラブの雰囲気も「ザ日本」。そこがとてもいい。
帽子を脱ぐ
映画のレビューサイトを見ていたら、ラストだけでなく会話やシーンに様々な解釈が付いていてほんとにすごい。
私は一回見てもなかなか分からないなぁ。難しいような気もするが、考えるより感じることが多い。
思わず吹いてしまう、笑えるシーンも多かった。
でも、花が帽子を脱ぐラストシーンが印象的で忘れられない、のは私だけではないでしょう。
いったいなぜ?今なのか?きっと巧が住民説明会で帽子を脱ぐ仕草とリンクしているんだろう?とまでは想像できましたが、やっぱりよくわからなかった。
これは、君の話になる
というキャッチコピーにその通り、まんまと引っかかってしまった。
「悪は存在しない」か?は哲学的でよくわからないが、誰もがどこかの部分が自分に関わっている、引っかかる、ということは確か。
濱口竜介監督の映画は、「寝ても覚めても」「ドライブ・マイ・カー」に続き3作しか見ていないですが、私は「悪は存在しない」が一番面白く観て、心に残った。