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父の作戦その1

「安子、これからの日本の女性はこんなせまい島国にいちゃダメだ」

父がよく口にしたフレーズの1つである。
大正3年生まれの父の青年時代は戦争真っ只中。満州にも11年間居たと聞いている。彼はその経験からどんな価値観を持つことになったのだろうか。
そして46の時、私の父となった彼は娘である私に何を伝えたかったのだろうか。今こうして立ち止まり振り返れば、「なるほどそうだったのか」と思えることもある。まぁ私の勝手な解釈にはなるが。

例えばこんなこと。
『お正月の家族麻雀』
我が家がでは家族麻雀はお正月の恒例行事であった。始まりはたぶん私が小学校3年か4年の頃。普段はお金を持っていない私もお正月は父からもらうお年玉があり、それを家族麻雀でかける資金とした。
メンバーは父と母と兄(13歳上)と私の4人。
母は麻雀のルールさえもあまりわかっていないので父が助け舟をだして進める。
だがどういうわけか私にはそれはない。
そして容赦もない。
だから・・・ぜーんぶお年玉がなくなっちゃうなんてこともあるわけで。

父曰く。
麻雀はツキを味方にしながら戦略を立てていくゲームなんだそうな。
大切なのは読む力と柔軟性。
そして時には一か八か、仕掛けていく勇気も必要だと。
相手の捨てハイを見ることもなく場を読むこともせず、ひたすら自分の戦略だけにしがみついていると、まんまと振り込んでしまうこともある。
『木を見て森を見ず』といったところなのだろうか。

この我が家のお正月恒例の家族麻雀は、当時の私にとってかなり面白いものでもあったが、同時になかなかの刺激的なゲームでもあった。何せ家族といえどもかけ麻雀なのだから。
そしてある時私に最悪の事態が起こってしまう。
そう。負け続けてもらったお年玉がすっからかんになってしまったのである。
私は空っぽのお年玉袋をみて大泣きした。

しかしながら勝負は勝負。
どうにもならないのである。
さてさて、父や母は私に何か手を差し伸べようとしたのだろうか・・?
もしこの場面で私が親の立場だとしたら。
おそらく私の母性はなんとか理由をつれて助けたいと思うだろうな(笑)

で泣き止まない私がその後どうなったかというと、、思い出した!13歳上の兄が私を外へ連れ出してくれたことを。当時はまだ元旦から三が日位まではしっかりお正月の雰囲気があった時代だった。近くの道では羽根つきやコマまわしをしている友達がいて、空を見上げれば空き地で凧(たこ)あげしている男の子がいて。
凧は風に揺れながらも高く高くとっても気持ちよさそうで。
そんな光景をみながら私は口数の少ない兄とともにゆっくりゆっくり歩いた記憶が蘇る。それがとっても心地よくて。次第に気持ちは落ち着いていったのである。

なんだかな、お金では買うことのできない大切なものってこういうことなんだろうな。
今更改めて思う。


私の幼少期から児童期にかけての昭和40年代はまだまだ超がつくアナログ時代。その状況を表すとしたら、手動で動かしていたものが電動になり、そのことをなんて便利なの~と感じられた時代である。
だからこそ、1つ1つ、変化に対する喜びはひとしおであった気がする。

例えば昭和39年の東京オリンピックの時のこと。我が家にはカラーテレビがやってきた。
その頃、テレビの主流はまだまだ白黒の時代。             カラーテレビを持っているうちは少なかったので、ご近所からはたくさんの人がやって来て、テレビの前でオリンピックの開会式を待っていた。3歳の私は小さかったので、テレビの一番前を陣取っていた。おそらく、、顔との距離は10センチ程度だったかもしれない。 
近っ!(笑)

そしてとうとう開会式が始まった。
オリンピックマーチの行進曲に合わせて、各国の選手団が入場してくる。
各国の旗もユニホームもなんてカラフルなことか。そしていよいよ日本選手団の登場!
日の丸と同じく赤と白のユニホームがとても映える。いやはや白黒でなく、色がついた画面に一斉に歓喜の声があがった。その喜びの渦は、まるで昭和映画の1シーンのようでもあった。
今では当たり前のカラーテレビの登場は画期的ゆえ、3歳の私の記憶にもしっかり刻まれている。

父は新しい家電にとても興味がありいつも一番に購入した。
まだ価格は相当高かったはずなので、買えたということは、当時はある程度の財力があったのかと思われる。ただ家に真新しい家電は増えたとしても、いつも忙しい父の姿を家で見ることはほとんどなかった。
世の中はまさに日本の高度成長時代。
東京オリンピックを機に東海道新幹線やモノレールが開通し、首都高速や環状線など道路もすごい勢いで整備されていった。土建屋の父もご多分に漏れず大きな現場に入ってしまうとなかなか帰ってはこず。
それでも私は時折父の存在を感じていた。
なぜか。
それは時々私の机の上に新聞記事の切り抜きが置いてあったからである。
父は、本社の会議で東京へ来るときは必ず家にも寄ったらしく、私の机にはその時の世の中情報があった。

『アポロ11号月面着陸成功』 (1969)
『大阪万博のシンボル、太陽の塔完成』(1970)
『日本列島改造論』田中角栄 (1972)
『オイルショック』 店内からトイレットペーパーが消える!(1973) 

まさに、「これからの日本の女性はこんなせまい島国にいちゃダメだ」
この価値観を、父は日常のちょっとした中にも取り入れていたのかもしれない。

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