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好機として捉えることについて①

僕は、生きていく上では以下の三点の繰り返しなのだと考えている。(本からの引用だが)
①物事が発生する(ほぼ外部的要因。自分ではコントロールできない)
②それに対して解釈する(自分にとってそれはどういうことか考える)
③行動、感情に落とし込む

ご存知の方も多いと思うが、心理学でいうABC理論というものだ。
②の部分をどう解釈するかによって、幸福に感じたり、不幸に感じたりする。
ただ、どうしても自分の理想を持ちながら生きている以上、理不尽なこと、悲しいこと、どうしようもないことというのは出てくる。
そんなときに、②で自分にとって幸せな方向に解釈することは難しい。

そこで人が考えたものに宗教があると、僕は考える。
②に「神」という、絶対的に裏切らない寛容な存在によるリターンを置くことで、人はそれを好転的に捉えることができていた。それが自分の死であろうと、だ。
例えば、遠藤周作が原作の映画に「沈黙」というものがある。これは、開国前の日本でキリスト教を広めようとした牧師の話なのだが、周囲からは蔑まれ、仲間は殺され、自身もとうとう神を裏切る行為(踏み絵)を行う。
そんな、到底立ち直れないような事象を経験する主人公なのだが、最後の火葬されるシーンにて、隠し持った十字架を手に、報われたような描写で終わるのが私は印象的であった。彼は、どんな状況でも神を信じること、またそれによりどんなことも信じた神による試練だと解釈し、人生を全うしていたのだ。
つまり、何が起きようと、生き方、手段を変える必要が出てきても、決して自分の信じる軸と解釈を変えずに生きていたのだ。
私は無神論者だが、そういった意味での宗教の素晴らしさ、また信仰者の強さには感激した。

では、宗教を持たない自分にとって②に当てはまる軸とは何か。
そもそも、全てを好機にとらえるのは正しいのか。(私の中では、当時は好転的には捉えれなかったが振り返ると良かった、とうこともある)
きっと答えはないのだろうし、変わることだろうし、とはいえ辛い、逃げたい、ということは多い気がするが、なんとか考えてみようと思う。

今回は長くなったので、次の記事にて記載

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