第四章:龍神
陰陽寮に別れを告げ、京の都を後にした次の日、貞観は例によって事の顛末を義円に報告すべく、良願寺を訪れていた。
待ち合わせ場所に選んだいつもの場所――講堂最奥の板敷の縁側で、貞観は先ほどから白湯をちびちびやりながらうつらうつらしていた。
陰陽師たちに除霊を試みてもらったものの、その効果は無かったらしく、昨夜も、寝入りばなになると例の「こどく」と名乗った男の霊の「さびしい、さびしい」という声が繰り返し聞こえてきたのであった。
貞観が、ふわ、と今一度大きなあくびをした時である。
「おっ、今日もさぼっておるな」
声が降ってきたかと思い見上げてみると、そこには義円のがっしりとした体躯があった。
どのような修行をしていたのかは分からないが、上半身を裸にして、その成りのいい体を見せつけている。
「これはまた、ひどく汗臭い男が来たねぇ」
貞観は鼻の前で手のひらをぱたぱたしてみせる。
「お前もどうだ、なぎなたの手ほどきくらいしてみせるがな」
「私は結構」
ははは、と義円が高らかに笑う。
それはそうとね、と、貞観はここ二日にあったことを義円に話して聞かせた。
「ほう、西三条の女御の元に通って、男の霊を従えてくるとは。男冥利に尽きるではないか」
一通り話を聞き終わると、義円は面白そうに貞観に向かって言った。
「もう、冗談ではないよ。こちらはひどい寝不足なんだから」
そう言う貞観の目元には、なるほど、どす黒い隈が浮かんでいる。
「しかし。そういうことならまず俺に相談すべきだったのだ。都の陰陽師など何の当てにも出来ぬぞ。今や時代は僧。とりわけ修験道の時代だ。その手の悩み事は、今では皆、法力僧に頼んでおるぞ」
「なに、そうであるのか」
僧だらけの南都、大和の古都にあって、なぜそれを知らんと、義円は貞観に重ねて問うた。
「どうせ今夜も寝れぬのであれば、どうだ、ひとつ俺たちに頼んでみないか」
「義円たちにか」
義円の誘いであれば、断る理由などない。
「ただし、俺たちの場合は、秘術を使う」
その言葉に疑念を抱きはしたものの、貞観は、その夜、義円たち法力僧の力を借りることにしたのであった。
夏の夜は、今宵もとっぷりと暮れていく。
貞観は、今夜は身を清めた後に、渡された修験道の衣に袖を通していた。
修験道の衣とは、白装束に大きな数珠を首にかけ、小さな頭巾をかぶり、手には錫杖と呼ばれる道具を持った、この時期から流行し始めた山にこもる修行僧の衣のことである。
義円は、その身にふりかかった災いが解かれるまでは、この姿でいるようにと貞観に念を押した。
そのような衣を身にまとい、今宵貞観は、良願寺とは別の、もっと山奥にある修行用の寺へと足を踏み入れていた。
何につけ貞観を先導する義円も、このとき、貞観と同じ衣を身にまとっている。
山のふもとからいったいどれほどの時を経たのだろうか、日没ぐらいから歩き始めた貞観たち一行は、もう半時は、長い檜の階段を山から山へと、うねうねと渡り歩いていた。
先を歩く義円の影は、廊下の両側に灯された松明に照らされ、長く後ろに伸びている。
その影をなんとなく踏まぬように、貞観は義円のすぐ後ろをついてゆく。
その山をなんといったのか、貞観は後になっても思い出せないのであったが、とにかく大和の山奥にある、ある小高い山であったことだけは覚えている。
長い廊下をのぼりきったその山の中腹に、東大寺の大仏がいくつも入りそうな、立派なお堂が建っていた。
「ついたぞ」
山の奥にあるだけあって、三方をうっそうとした針葉樹に囲まれ、そのお堂はあった。
貞観たちは、階段の端から縁伝いに進み、山の中腹に張り出したお堂の縁側に出た。
すると、大きな鉄製の門が待ち構えていた。
貞観たち一行は、その門の前にずらりと並んだ。
ややあってその門に、なぜだか立派な錠がしてあるのを、貞観は見て取った。
それは何かと聞くのもはばかられるような厳しい空気が張り詰める中、貞観の見ている前で、義円たち五名の法力僧は、両側からその重そうな閂を引き抜いてゆく。
蝶つがいの鈍くきしむ音がして、大きな扉が、内側に開く。
促されて足を踏み入れると、果たして、お堂は八角形をしていることが見て取れた。
そしてお堂の中ほどまで進むと、そこには山肌が切り立っており、その前に護摩壇が据えられていた。
八角の半分を、山肌が占めていたのである。
不思議なつくりをしたお堂だと思いながら、貞観は指示された場所に腰を落ち着ける。
「では、はじめる」
厳かな声が響いたかと思うと、八角形の八つの隅に松明が焚かれた。
そして最後に、護摩壇の中に火の種が放り込まれた。
さきほどから、八角形をしたお堂の中には、義円たち法力僧の、呪を唱える低い声がこだましている。
貞観は列の最後尾にあって、真正面でぱちぱちと音を立てる護摩壇を眺めていた。
前列の僧が火種をいじることにより、あちらこちらで踊るように炎が上がる。
そんな炎を見ていると、人の世について漠然と思いを馳せたくなるような、そんな心地がしてくるものである。
この末法もとうに過ぎた世にあって、果たして人の生き死にとは、一体何の意味をもつのだろうか――。
義円との縁、大学との縁、女人たちとの縁、家人との縁、家族との縁、様々な縁がより合わさるようにして、この貞観という一人の人物の人生を形作っている。
貞観という人物の人生の上を、様々な思いを持った人が通り過ぎてゆく――。
いや、今は人ではなく男の霊であったか。
めんどうなことだ――。
貞観は、誰にも分からぬよう、小さくため息をついた。
その時であった。
ごう、というひときわ大きな炎が立ち上った。
護摩壇の背後にある岩肌が、その黒い影が、大きく動いたのである。
はじめは見間違いかとも思った。
しかし違う。
目を凝らして何度も確かめるが、確かに大きな岩肌それ自体が、ずずと動いているのである。
あれ――。
貞観は、声にならぬ声を発した。
「落ち着け」
直前に座る義円が貞観を振り向きそう投げかける。
義円が落ち着いているといことは、これは織り込み済みのことであるのだ。
落ち着け――。
深く息をして、貞観は自らを落ち着ける。
そうしている間にも、影はいっそう大きくうねっている。
一体何なのだ、これは――。
貞観が目を見開き、口を力なく開け、成り行きを見守っている間に、その影は、細長い一本の綱のようになり、その場でとぐろを巻いた。
ようやっと、暗闇にも目が慣れてきたかと思われる頃。
影の姿形がなんとなくあらわになってきた。
「義円」
貞観は直前の義円を呼びかける。
「義円、あれは、もしや、龍か」
義円が振り向く。
「そうよ。この寺が拝み奉るところの龍神様であらせられる」
義円ははっきりと言った。
「龍神様――」
貞観は目を凝らし、その姿を、きっと目にとめようと試みた。
しかしそれは影となってその場でとぐろを巻いているだけである。
貞観の意思を反映してか、護摩壇の中の木片が、今一度ぱきんと音を立てて崩れた。
途端に、大きな炎が立ち上り、背後の影を照らし出す。
すわ、貞観は見た。
影の中に、確かに龍の鱗が陰影となってあるのを。
大きな二本の角に、ぎょろりとむいた目の玉、口の上から伸びる長い髭、手には宝玉、全身を覆う鱗のおびただしいこと――。
これが、龍神――。
「義円、私は、龍神は初めて見る」
「そうか、ようく拝んでおけ。二度とは拝めぬからな」
義円はそう言って、再び護摩壇の方へ向き直ると、他の法力僧と共に呪を唱え始めた。
貞観は、忘れていた瞬きをし、今一度龍神の姿を捕らえようと目を大きく見開いた。
すると、突然あたりが一瞬だけ、ぱっと光で照らされた。
貞観は、見た。
岩肌の上で龍がとぐろを巻いているのを。
その鱗は湿り、口元からは霞が漏れ出ているのを。
次の瞬間、あたりに大きな雷鳴が轟いた。
八方の松明が大きく揺れる。
護摩壇の炎も、その瞬間だけ、ふっと消えた。
そうして、再び元の堂内に戻ったとき、貞観は何か様子がおかしいことに気が付いた。
先ほどの、堂内を内から圧迫するような威圧感が、まるで消えているのである。
その威圧感の主、それこそは、岩肌に巣くう龍神ではなかったか。
貞観はいそぎ、護摩壇の向こうを見やった。
そこには、さきほどの龍神の姿はなく、龍神がいたであろう痕跡だけが、湿り気を帯びた土塊となって残されていた。
「や、これは、何事ぞ」
護摩壇のこちら側で、法力僧たちが声を荒げ始めた。
「貞観、おぬし、何か見ておったか」
義円に尋ねられ、貞観は、何も、と答える。
こうして、貞観の目の前で、龍神は姿を消したのであった。
そういうわけで、この夜、貞観の厄払いは叶わず、かわりに龍神を見たこと、その龍神が姿を消したことを他言無用にするようにと念を押されて、貞観は家路についたのだった。
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