『No Time To Die』から『Time To Die』の世界へ~「007/No Time To Die」感想
※本記事は「007/No Time To Die」のネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。
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公開から1ヵ月近く経ってしまったが、「007/No Time To Die」を鑑賞してきた。
まさにダニエル・クレイグ版ボンドの集大成、エンディングにふさわしい、これ以上ない映画であった。
前作「スペクター」は期待していた分個人的にはもやもやがあったりしたのだが、それらを解消してくれる、「真の集大成」と表現することができる作品であったと思う。感想は山ほどあるのだが、この記事では「No Time To Die」というタイトルに焦点を当てて、本作がなぜクレイグ版ボンドの集大成たり得るのか、その感想を書いておこうと思う。
掟を破り続けてきたクレイグ版ボンドの究極の「掟破り」
まず前提として、クレイグ版ボンドの特徴は、従来のボンド作品が暗黙のうちに守ってきた「掟」を破ってきたことだと思う。その特徴は主に下記の通り。
①それぞれの映画が単発ではなく、複数の(クレイグ版ボンドの映画全てで)一貫したストーリーを持つ
②ボンドを「007」というスーパースパイとしてだけでなく「ジェームズ・ ボンド」という一人の人間として描いている
③現実社会に即したリアルな作風
そして本作「No Time To Die」は、最後の最後に究極の「掟破り」を行う。
それが「ジェームズ・ボンドの死」である。
シリーズものであり、50年以上、25作に渡って続いてきた作品群の主人公であるボンドの死。俳優を交代しながら続けていく特徴があるとはいえ、彼を殺してしまうというのはある種禁じ手と言ってしまってもよく、観客が受けた衝撃は測り知れないだろう。
しかし、本作はその「死」という禁断の結末に関して、きちんと観客が納得できる作りになっていると思う。それは、今までの、従来のボンド映画のシステムではなし得なかったことだ。特に、上で言う①②の特徴が色濃く影響していると思う。
死ねない人生
これまでのボンドが「死」という結末を迎えられなかったのはなぜか。
思うに、これまでボンドは『何も遺すことができていなかった』からだ。
何度も世界を救いながらも、結局は人を殺し、自分も殺されそうになることの繰り返し。スーパースパイ・007としての一見華やかな生き方は、しかし「一人の人間として」という視点に立てば、見え方が全く異なる。
「スペクター」でのマドレーヌ・スワンの言葉「暗闇の中で、追って、追われて、いつも背後を気にして、ずっと一人きり(Living in shadows, hunting, been hunted, always looking behind you, always alone)」というのは、それを端的に言い表している。言ってしまえば彼の生き方は異常そのもので、一般人から見れば到底耐えられるものではないのである。
ひと時のロマンスではなく彼の生き方に口を挟んでいったのはヴェスパー・リンドと共通するところであり、マドレーヌがボンドにとって特別な女性になるであろう予兆が、すでにあったのであろう。
さて、だから普通の人と全く違う生き方をしているボンドは、スーパースパイとして普通の人が持っていない全てを持っているように見えて、それでいて普通の人が当たり前にしていることができていない。
それこそが『遺す』という行為である。
世界を救うと言っても、結局やることは人を殺すことだけ。命を奪って奪って奪い続けて、自分では何も築かない。ヒロインであるボンドガールともそれぞれの任務で出会い、体を重ねることは多くても、結局はその場だけで、次に何も遺らない。
クレイグ版ボンドにおいては、この「遺さない」という行為に、理由があったのではとも思える。それが今作にも何度も登場するヴェスパーとの一件である。初めて心を交わし、まだ00になりたてだった彼にその後の人生の送り方をも考えさせられることになった彼女が、しかし最終的には彼を裏切っていたことが分かったことで、ボンドはその場限りの、インスタントな生き方を選ぶようになってしまったのではないかという気がする。
それは「007」としては数々の任務で輝かしい成績を上げる、スパイとしては理想的な人格になったということなのかもしれない。けれど一人の人間としては明らかに破綻していて、だからこそクレイグ版ボンドは華やかさの裏にどこか翳りが見えるのかもしれない。
だからこそ、ボンドはこれまで死ぬことができなかった。
物理的な話ではない。彼が「007」としての超人的な能力を有していなければ何度死んでいたかわからないような苦境でずっと戦ってきたわけで、これまで「死ななかった」のは彼が優秀であるからだ。
そうではなく「死ねなかった」のは、映画として、キャラクターとしての視点での話である。上述の通りの、世界を救うだけで何も遺していない彼が、物語の中で死ぬ結末を迎えたところで、それは空虚な印象しか与えないだろう。絢爛で、誰もが羨むように見える彼が、死の間際に自分が何も遺せていないことを知る。そんな空しい最期を観客は目の当たりにしてしまうだろう。エンターテイメントとして、娯楽としても良くはないし、何より「ジェームズ・ボンド」という一人の人間を描いてきた本シリーズにとっても、彼に人間として厚みのない最期を迎えさせることはできないだろうということだ。
『Time To Die』を迎えられる世界へ
そんなボンドの生き方に転機が訪れるのが本作だ。フェリックス・ライターとの関係や会話など他の要素もあるが、何よりその最たるものが、前作で結ばれたマドレーヌとの間に設けた(本人は認知していなかったが)実の娘・マチルドである。
これまで誰も愛してこなかったボンドが唯一愛し「続ける」ことができた女性、ボンドに愛されながら生き続けることができた強い女性、そんなマドレーヌだからこそ、ボンドの子を授かることができた。彼と別れた後も愛情を注ぎながら育て続けたことで、マチルドは健やかに、健全な精神のまま育つことができたのだ。これはこのクレイグ版ボンドと、何よりマドレーヌという女性あっての結果であろうと思う。
ミサイルの群れを、自身の死を待つ時間で、ボンドはマチルドが自身の血を引く子供であること、自分がようやく何かを遺せたことを悟る。自身の、そしてマチルドにも引き継がれた青い目を思い出しながら、「(マチルドの目は)あなたの目よ」というマドレーヌに対して「ああ、分かってる。僕の目だ」と返すボンドの顔は、爆風にのまれるその瞬間も安らかなものだった。
最後の「I know」を「僕の目だ」と訳した字幕にも拍手を贈りたい。死の間際に感慨にふける空気感を本当によく醸し出している(この箇所だけではないが、ボンドの一人称が「俺」「私」ではなく「僕」になっているのもまた絶妙)。
「No Time To Die(死ぬ時ではない)」というタイトルは、だから、今までのジェームズ・ボンドを表現したものではないかと思う。これまでずっと「Time To Die」を迎えることができなかった、「No Time To Die」の世界に囚われていたボンドが、ようやく死を迎えることができる人間になれたのだ。
ボンドの死というあまりに衝撃的な結末、「007シリーズ」における究極の 掟破りは、もちろん観客・ファンに大変な衝撃を与える。しかしそれでも、私はボンドに対する「死」は、ある形での祝福、賛辞であると、誰もが迎える「死」を拒否されてきたボンドが人間となったことへの、人間であることへの賛歌であると、そう思うのだ。
最後にMが引用する「命を延ばすのではなく、使い切りたい」という一文もそうだ。命を落とすのは、死ぬというのは、ただ無為に終わることではない。生きて生きて生き抜いて、その証をどこかに遺して、与えられた命を使い切る、そんな命を全うする美しさ。ボンドが最後に示したものはそれなのではないか。
だからこそ、あんな悲劇的なエンディングにも、こんなにも胸が震えるの だろう。
ダニエル・クレイグの演じるジェームズ・ボンドは、死という結末を迎えた。さあ、次のジェームズ・ボンドはどんな人生を見せてくれるだろうか。彼もまた人に戻って死を受け入れるのだろうか、それとも、それ以外の「ジェームズ・ボンド」として、あるいは「007」としての生き様を見せてくれるのだろうか。どんな形にしても、どんな彼であっても、その命が煌めくさまをまたスクリーン越しに見られることを、心から楽しみにしている。
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