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魔境とは自己利益的欲望の現れ

禅宗の坊さん達が、魔境についての忠告をしているのを時折り本等で読みますが、その人達は霊眼に映ずるすべての姿形、例えば仏、菩薩像等も、ことごとく魔境の現われである、迷い心の現れである、と強く否定していますが、私はこれは断見である、一方的な見解であると思います。何故ならば、釈尊をはじめ、大弟子の目連、舎利弗、迦葉等は皆、霊眼で仏菩薩や、霊界、幽界の情景を観ることが出来た人達であり、イエスや、その弟子達も、やはり、そうした霊限が開いていたのです。只、それに把われてはいけないということの注意は絶対に必要なのですといって、近頃の低い行者層のように、霊眼霊視を売物にして、何か特別に自己を偉大視させようとすることは、これは又困りものです。

そこで、真の霊能と、魔境的、迷い心の幻覚、幻聴との区別を、どういうようにしてつけたらよいかということになります。

初め、人間にとって危険な魔境的、幻聴、幻覚とはどういうものかをお話しましょう。

魔境とは、先ず最初に、自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、そうした統一でなった霊能は、全部一度うちけして、もとの普通人に還えらなければいけません。それは例えば霊眼に仏・善薩の姿が観え、霊聴に神と称し、キリストと名のってきこえてきても、これは駄目なのです。何故というと、自己利益的欲望では絶対に神仏の真の力を頂く境地にはなれないからです。しかもそのような欲望的境地でも、亡くなった人の姿が観えたり、現象的には適中する霊聴、霊言の力にはなり得ます。そして、その場その場の細かい御利益も与えられます。しかしそれだけの話で、魂の開発向上には少しも役立たぬばかりか、遂に自己の身を滅ぼし、ひいては他人の魂を傷つけゆがめてしまうようにもなるのです。

それから、善し悪しかまわず、はっきり、いってしまう霊言、人をおびやかし、人の勇気をくじくような霊言、人と人とを不仲にさせるような霊言等々、それが実際に当っていても、これらはすべて魔の境地からなる霊能というべきなのです。

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