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51_一度きりの湯 -野口温泉(別府)-

 堕落した午前を過ごした。
 やりたいこと、やらなければならないことは山のようにある。
 外では雨が降っていた。久しぶりの雨だ。
 ふと、石田千さんのエッセイ集『夜明けのラジオ』の中に収録されている「雨の名所」のことを思い出した。

 花の名所をさがすように、雨をながめるのにいい窓をいくつか覚えていて、こんど雨がふったらと、心づもりをしてある。

著:石田千『夜明けのラジオ』

 この中で「天窓のある銭湯」をあげていた。思い返せば、これまで雨の日に温泉をめぐったことは数年前の一度きりだった。これはまたとない機会かもしれなかった。
 そうと決まれば話は早い。洗面道具一式と傘をもって外へ出た。

 野口温泉。単純温泉。ジモ泉。公民館の一階が温泉になっているタイプで、扉の向こうは少し広い空間が広がっている。番台さんがいらしたので、直接お金を手渡す。「ごゆっくりどうぞ。」を聞くたびに共同温泉の懐の大きさを感じる。
 
 浴室に入りあいさつを交わすと、初めての光景に出会った。
 これまで入ってきた共同温泉、いわゆるジモ泉は浴槽の周りに座って直接お湯を汲み取っていた。ところがここでは、壁に設置されてある蛇口からお湯をかぶっていた。
 
 温泉に行くと、ほとんどの洗い場には蛇口とシャワーがひとつにまとまったタイプのものが置かれてある。野口温泉ではお湯とお水の2種類の蛇口がそれぞれ独立した形で並んでいた。
 
 自分で適温に調節できるのは誰にとっても優しいことだ。先客のおじいさまたちは、高さの異なる長い蛇口をクロスさせて適温のお湯を作っていた。
 
 早速、見よう見まねで二つの蛇口をひねって洗面器にお湯を流し込むと、お湯がにごっていた。はっきりとにごり湯だと認識できるほどにごっていたのは初めてだった。

 
 にごり湯といえば、小さい頃は薬湯が苦手だった。北九州の祖母の家の近くに温泉があった。内湯はぬるま湯、電気湯、ジェットバス、薬湯の四種類。薬湯の手すりには薬草が入った袋がくくりつけられていて、お湯はしっかりとにごっていた。
 
 今となっては効能があることや、においへの抵抗も薄れたからすんなり入れるだろうが、つい先日、数年前に閉店していたことを聞いた。もう、あの薬湯をリベンジすることはできない。

 
 そんなことを思い出しながら、体を洗い終え、浴槽に足を入れる。にごり湯は底が見えないから少し怖い。
 
 いやあ、熱い。さっきまで適温の湯ばかりかぶっていたから、足の指先までピリリとあちち。けれど、雨で冷えた体を温めるのにはちょうど良い熱さだった。お湯に浸かりながら、地元の方々たちの会話に聞き耳を立てるのも醍醐味のひとつ。どうやら、別場所から温泉を引いている関係なのか、雨の日だからにごっているだけで、いつもは透明の湯なんだそうだ。
 
 雨が降ったから出会えたお湯。わざわざ雨の日に温泉に入りに来た甲斐は十分あったようだ。

 
 「いいお湯でした。」と番台さんに伝えようとしたら、ちょうど席を外されていた。傘を開き、道に出る前に入り口よこのお地蔵様にことづてした。

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