女天狗

まあこれは、話さなくともよいことかもしれないけれど。

実は、森の中には木陰の隙間にのぞく月明かりの差す、野原が存在するのであります。
“存在”という言葉は、話し手である私のがらんどうの語彙容器から無闇に取り出したものであります。ですから、ここでは“存在”という言葉になんらかの思案を巡らすことは致しませぬし、聞き手様の方でも差し控えてくださいませ。私の使った“存在”という言葉はそれはもうまったく一般の意味でありまして、浅瀬に打ち上げられた小さな貝殻のようでありますので、どうぞ粗末なものでありますが、気軽に取り扱ってくださいませ。
話しを戻して、私はある時、その野原にいたのであります。これは後々明らかになることではありますが、ある時、というのは、しかるべき時でもありました。
野原には様々な花が色彩豊かに咲いておりました。折から太陽は覗かず、辺りの木々も小暗く、花々の種類までは明確に見分けられませんでした。野原では、時間の流れに緩急がありました。ぴいんと弦を張るようなこともあれぼ、ぼよんとゆるゆるになるようなこともありました。野原では、空間の密度に剣幕と歪みがありました。剣幕の恐ろしいと、星々は鼻をかみ、花々は涙を流し、空間に歪みが生ずると、木々は眉を寄せ、虫は怪訝な顔をしました。
私はというと、ずっと、かれこれ一億光年くらい、ただ立っているだけでした。

月が出ていました。
赤黒い、大きな大きな、満月でした。
叢雲が、地獄の舌で月を焼べる大炎の燃えさかるように、あたりを灼熱色に染め上げました。星は次々と焼き尽くされ、アルタイルもデネブも、恒星の中で一番明るいシリウスも駄目でした。
私は、ひどく落ち込んで、裏切られた気がして、何処かで滅び往くものの遠吠えを聞いたような気さえしたのであります。私は、シリウス、またの名を天狼星と呼ぶこともありますが、この一等星が頗る好きなのでありました。
野原は、アッという間に様相を変えました。いかづちがゴロロと落ちて、遠くに暗色の岩石を巻き込んだ大竜巻が見えました。
そんなときに、彼女が現れたのであります。
“現れた”も、先の“存在”と同様で、悪しからず。
彼女は灼熱地獄の宙を旋回しながら、白色の笛を吹きました。高く、透き通った笛の音色で、普通の人には聞こえないような音色です。勿論私も聞こえませんでした。しかし、彼女がどれだけ美しい音色を持っているか、そんなことは容易に感じ取ることが出来たようでありました。雪風景の白装束の袂から、深緑の銀竹、開くとあられもない艶美な笹団扇、一振り、二振りするともう閻魔は消え払われて、野原は元のように存在したのでありました。星も再興したようでした。オリオン座の傍らにはシリウスがどすんと胡座をかいていました。
宙を舞っていた彼女は、私を見下して、サッと、ふわりと風を纏いながら野原に降り立ちました。白雲のような長襦袢に裏袖は浅瀬の海色で、帯は笹団扇と同じ深緑な、黒髪の肩まで切り揃えた美人。顔を見れば、肌は雪のような白で、きりりと亭亭煌煌とした長鼻。花々も平伏すほど美しい、背丈の短い、女天狗でありました。

               (つづく)

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