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愛ってなんだよって想うよね。君は?

ハロー。ごほちダヨ。
今日はズバリ“愛”について。

この言葉を吐くのは呼吸と同じくらい
簡単なことなのに
自分の思い通りに伝えたり
相手から受け取ったりするのは
人によってはピーマンやしいたけを
食べることよりも難しいことなんじゃないかな。

まあそもそも“愛”とは?みたいなところはある。
全人類が納得できる説明の仕方があるのなら
世界はきっともっとシンプルだ。
それが叶わないから
世界はこんなにも面白くて
苦しいのだとごほちは思う。

というわけで今日は
半年前の僕の日記等に触れながら
言欲なりの“愛”について書いていけたらと思う。

半年前の日記を振り返って

ごほちは上京してすぐくらいから
日記をつけている。
携帯のメモに仕事終わりに
ポチポチと打ち込んでいるのだ。
最近はその中からみんなに
ぜひ見てもらいたいこととかを
このnoteに綴っている。

そんな僕の約半年前の“愛”に関する日記が
見つかったので
抜粋しながら振り返ろうと思う

愛は宗教って本当になんていうか、 
しっくりくるのよなあ。

野田洋次郎が
「生まれて初めての宗教が君です」
って五月の蝿で
「地上で唯一出会える神様」
って有心論で歌った。

愛は与え合うものだとしよう。
俺は愛したい相手を信仰する。
変な表現だけど"信じる気持ちを与える"
風穴空いた心から吹き抜ける"信仰心"を相手に。
俺を愛してくれる相手は
俺の心の穴を
きっと自身の御心を削いで
その鮮やかなピンク色の
温い肉で埋めてくれる。

世の人間どもは
みんな目を輝かせて
目に見えないはずの"愛"を
キラキラして ドロドロして
時に甘酸っぱく 時にほろ苦く
本当に素晴らしいものだと
みんな口を揃えていうけれどさ。
目に見えないし
あるかどうかもわからないものに
勝手に名前つけて意味こじつけて
「スバラシイデスヨ〜😁」ってやってる様を
改めて考えると、本当に宗教だなあって。

半年前の言欲の日記より抜粋

読み返すと相当荒れてんなあって思う。
半年前は言欲の23歳の誕生日も終えて、
あまり変化のない人生に多分相当参ってた。
この頃は暇さえあればお酒飲んでた気がする。
noteを読んでくれたり、
言欲のことをよく知ってくれている人たちは
きっとよくわかってくれていると思うが、
言欲は酒を飲むと気分が沈むのだ。
この時も結構酔っ払いながら書いてたのを少し覚えている。

これは宗教や愛に限った話ではないが、

何事も信じる信じないは自由だし
解釈も自由。
自分の都合のいいものを信じて
都合のいい意味を与えて
"愛"っていう魔法の言葉で包み込んで
声高らかに叫んで回ってる。
気持ち悪い。
もちろん俺もそのひとりで
俺は俺がどうしようもなく
気持ち悪いことなんて嫌というほど
わかっている。

言欲の日記より抜粋

今の言欲が半年前の自分に伝えたいことは
ひとつだけある。
そんなに怒んなくていいんじゃない?
本当にそのくらいしかかけたい言葉見つからないね。
怒っても仕方ないぞって言ってあげたい。

(前略)
生きてく中で
知らないことを知った時、
なんか嬉しいし気持ちいいじゃん?
例えば恋する相手の好きなものとか
初めて食べたおいしいご飯とか
綺麗な景色や面白い作品とか。
その気持ちよさの中毒になって
どんどんのめり込んでいくのが
人間だと思うの。

(中略)

全人類が納得できる形で
"愛"を説明できる何かがあったなら
人間はみんなそれを求めて彷徨ったり
時に狂ったり 泣いたり笑ったり怒ったり
なんていうか、知ろうとなんてしないと思うの。
納得いく説明がされてるなら、
興味なんてわかないと思う。

(後略)

言欲の日記より抜粋

この時期、たしか言欲は職場の人から
「他人に興味なさそうだよね」って言われたのを覚えている。
言欲自身の想いとしてはむしろ真逆で
自分の周囲の人、大切に想う人なら尚更、
「知りたい」と強く想う。
でもそれをうまく伝える術がわからなくて
半年経ってもやはりわからなくて
迷走の日々は変わらない。

誰もそれができてないから
自分が初めて万人を
納得させられるようになりたくて
気持ちよくなりたくて
気持ちよくしたくて
みんなそれぞれ意味をつけて
それぞれの解釈で
それぞれの聖書を手に
それぞれの布教活動に勤しむ。

ほら、愛は宗教だ。
全人類に平等に不平等で
あやふやで
でもきっと素敵なものを信じてる。
否定する人だって
きっとその存在を誰もが納得する形で
示されたらさ。
壊れちゃうから自衛のために
否定しようとするだけで
心の奥底ではきっとみーんな信じてると思うの。

愛の存在。

言欲の日記より抜粋

この日記から分かる通り
言欲はやはり“愛”について思い悩み
他人を愛したいし
他人から愛されていると実感したいのに
どうしたらいいのかわからなくて
自分なりの答えを模索する日々は
やはり半年経った今も変わらない。

半年悩んだ末の愛のかたち

この話は先月半ばの言欲のnoteでも
触れた話になってくる。
『穏やかな春の空気に混じる毒について』で
さよならの愛おしさについて
米津玄師さんのviviについて話しながら綴った

伝えること
届けようとすることも愛なら
離れること
諦めることも愛のひとつだとごほちは思う。

穏やかな春の空気に混じる毒について より

自分で見ても結構いいこと言ってんなって
褒めてあげたくなるし、言欲の価値観にも触れているので、興味があればぜひ読んでいただきたい。

この記事の後も考える日々が続いて
さよなら以外にも
言欲にとって馴染み深い
言欲なりの他人の愛し方に気がついた。

“他人を傷つけること”

これはさよならに対する気持ちとも似通っているし、少し言葉遊びみたいなところはあるのだが
創作のメモにこんな一文を見つけた。

“きずな”は“きず”をはらむ

なにもうまいとは思えないが、面白い発想だなと思った。

言欲はずっと誰かを傷つける人生で
傷つけられることとはあまり縁がなかった。
傷つけてしまう人は決まって大切に想う人で
“不器用”なんて言葉では片付けてはいけない
と心底思うが、
言欲のリアルでの人間関係は特に、

“きずな”の中に“きず” があった。

誰かを傷つけ続けた人生。
言葉で救いたい想いとは裏腹に行動で傷つける。
そしてみんな離れていくし
言欲もうんざりして人に近寄らなくなる。

不出来な自分を呪っても仕方ないが
いつだって自分の愚かさを呪ってきた。
毒と呪いに塗れた人生。

そんな日々の中で“さよなら”が絡む
言欲なりの“愛”についても思考を巡らせた結果
アルコールに侵された詩人の脳味噌が導き出した
僕なりの愛の形。

誰かを傷つけて、嫌われること。

『こんな最低な自分になんて関わらないで』
『素敵なあなたの周りにはもっと相応しい人たちがいるべきだ』
それをうまく伝えられない自分なりの
自作自演の一連の行動こそ、
言欲にとっての愛情表現なのではないのだろうか。

最後にこの記事を読んでくれた皆さんへ伝えたい。
言欲の作品を読んでくれるみんなへ伝えたい。

お前ら、だいきらいだ。
愛してるぜ。

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