見出し画像

誰も知らない

【前回までのあらすじ】
十七年前。私はコインランドリーで自称「乞食」の女と出会った。その翌日、私の家に黒服の女が訪ねてきた。モテ期の到来か。

当時、私が住んでいた越谷のアパートは一階と二階にそれぞれ十部屋づつ、計二十部屋あり、私の部屋は二階の中央に位置する場所にあった。部屋の北側には東西に延びる外廊下が有り、その両側に階段があるという一般的な構造のアパートだ。

コインランドリーでの出来事の翌日、私が終業後に徒歩でアパートに戻ると、二階の外廊下の東側の端に、黒い人影が座っているのが見えた。
アパートの一階の東側には駐輪場がある。会社からの帰宅時、私はいつもその駐輪場の脇を抜けて、東側の階段を上がる。

「何だろう? 誰かを待っているみたいだけど」
私は訝りながらも、普段と同じくアパートの東側の階段を昇った。すると黒服の不審者はすっと立ち上がり、廊下の格子状になっている手すりに身体を寄せた。私はその前を横切りながら、不審者の服装を確認した。黒いコートに、黒のロングスカート。そして、黒い中折れ帽子とサングラス。まるでスパイか魔女のような服装だ。もしくは名探偵コナンに出てくる犯人か。スカートを履いている事で女性らしいということ以外は、どんな人物か全く見当が付かなかった。その女を薄気味悪く思いながらも、私は自分の部屋の前で玄関の鍵を開けようとした。そのときに、私は何気なく女の方を見やると、その黒服もこちらを見ているのが分かった。そして、女は足を踏み出そうとして躊躇をした。
「え? うち?」
私は家に入り玄関の鍵を閉め、靴を脱いだ。ワンルームの六畳に入ると、私は部屋の真ん中で呆然と立ち尽くした。私の脳内ではアラームが鳴り響き、不安感と警戒心が渦巻いていた。
「何だろう? よく分からないけど、うちに来そうな気がする……!」
普段ならば部屋着に着替えるところだが、直ぐに女が家を訪ねてくるような気がして、私は何も出来ないでいた。すると、部屋に入って一分もしないうちに、案の定、家の呼び鈴が鳴った。私はすぐさま玄関に行き、ドアの覗き穴から外を見ると、やはり先程の黒服の女が立っていた。
やっぱりうちなのか……。私の直感が当たってしまった。
「はい?」私は恐る恐る返事をした。
「すいません。ちょっと、お尋ねしたいことが有るのですが……」
私はドアのチェーンが掛かっている事を確認して、緊張しながらドアをゆっくりと少しだけ開けた。

「はい?」
「すいません。ちょっとお聞きしたいのですが、この部屋に以前に住んでいた方を御存知ありませんか?」
「前に住んでいた人……?」
真っ黒だと思っていたサングラスは薄い色のサングラスで、ひっそりとした女の不安そうな表情が読み取れ、年齢は三十代半ばから四十代ぐらいに思えた。実際はもっと年上かもしれないが、少なくとも私よりも年下のような雰囲気はなかった。
思ってもいなかった質問に私は意表を突かれたが、数週間前に部屋に下見に来たときから空室だったこの部屋に誰が住んでいたのか、私には知りようがなかった。
「いや、知らないですね」
「そうですか……。失礼ですが、越してこられたのは何時ですか?」
私は、なぜそんな事を聞くのだろうと思いながらも、まだ、ここに越してきて一週間も経っていないことを言うと、女は間髪を入れずに、今度は隣の部屋は空いているかと尋ねてきた。
「隣は空いているみたいですけど、こっち(反対側の部屋)は居ますよ」
私の隣の部屋は、大陸系のような人が住んでおり、時折、誰かと外国語で電話をしているのが薄い壁を通して聞こえてくる。
それはともかく、私は黒服の女に正直に答えたが、このときの私の喉元には「どうされたんですか?」という一語が出かかっており、聴こうか聴くまいか迷っていた。しかし、もし聴いたら知ったことを後悔するか、この部屋に住むことが不安になりそうであり、なんとか押さえ込んでいた。
「そうですか……。もう出ていっちゃったのか……」
女は俯きながら独りごちると「すいませんでした」と言い残し、何事もなかったように去っていった。
私は玄関を締め部屋に戻った。
何事もなくて良かった……のか?
さっきまで私の脳内の半分を占めていた警戒心は「???」という大量の疑問符に取って代わっていた。

何だったんだ、一体? そして、前に住んでいた人は……?
女は私に不安感と謎を与えるだけ与えて去っていった。
やはりどうしたか聴くべきだったのか。 「誰かお探しですか」と尋ねるべきだったか。しかし、聴いたら余計に謎が深まるのではないか。得体の知れない不安と不気味さに囚われるのではないか。
私は心がざわざわと浮き足だった状態になりながらその日を過ごし、それから暫くの間、家に帰ると、また誰かが外で待っているんじゃないかという不安を抱えながら帰宅する日々が続いた。しかし、私の不安をよそに、黒服の女は姿を見せることは二度となかった。

 そんな不安も薄らいだある日、私の部屋に一通のダイレクトメールが届いた。封は透明なフィルムで出来ており、中のカタログが見える。カタログには「かわいい雑貨」という文字が見え、ファンシーな柄が見えた。
「前に住んでいた人の? それとも、誤配?」
宛て先を見ると、私の部屋になっている。その宛て名とカタログの内容から察するに、どうやら私の前に住んでいた人は女性だったらしい。それも若い女性のようだ。そこで私は何となくではあるが、黒服の女が何者だったのか掴めたような気がした。

以下は私の推測である。
おそらく、うちに訪ねてきた黒服の女は、この部屋に住んでいた女性の母親ではないだろうか。この部屋には黒服の女の娘が独りで住んでいた。二人はどんな理由かは不明だが、元から折り合いが悪かったか、もしくは悪くなってしまった。
娘はある日、母に引っ越しをすることだけは伝えたものの、引っ越しの日取りと転居先を告げることはなかった。
「私、今の部屋を出ていく」
「いつ? どこへ引っ越すの?」
「……。教えない」
もしかしたら、このようなやりとりがあったのかもしれない。

そして、ある日を境に娘と連絡がつかなくなった。娘は電話もメールも着信拒否にしたのかもしれない。母は娘が引っ越しをする前に彼女と話し合いをするつもりで、アパートで娘の帰宅を待った。しかし、既に娘は転居しており、会うことは叶わなかった。

もし本当に黒服の女が母親だった場合、アパートを管理する不動産屋に行って身内であることを証明すれば行き先を知ることは可能ではないのか。
それとも、いかなる関係の人物でさえ、顧客の守秘義務として教えることは不可なのか。
そんな疑問はあるものの、おかしくはない話だと思う。親子ではないかもしれないが、かなり近しい親族だろう。
そのカタログから私はそこまで想像を働かせてみたが、何にせよ真実は分かりようがなかった。
数日後、私はカタログを受取人不在として、郵便局に持っていった。これでこの話は一応の決着は付けた。

この話と、前日のコインランドリーの話を会社の先輩に話した。
「コインランドリーに居た女が、こばやんの部屋の前の住人だったりして」それはないな、と私は思った。境遇が似ているのは偶然に過ぎないであろう。
しかし短期間の間に、私は二組の親子(もしくは人間関係)の断絶を見た。

いずれも女性同士、親子同士ではあるが、やはり男の私には窺い知ることのできない、深い溝が出来やすいのだろうか。それとも宝くじのような確率で、私がそのような関係性の一端を垣間見てしまっただけなのか。

あれから十七年もの月日が経った。あのコインランドリーの女は今もコインランドリーを転々としているのか、それとも実家に戻ることが出来たか。
黒服の女は娘と会えたか。それぞれ親子で一緒に食卓を囲むことは出来たか。どちらも所詮、私には赤の他人の出来事だと言えばそれまでだが、出来れば関係が改善されていてほしいと思うし、改善されるには充分な月日が経っている。

今から数年前に所用があり、南越谷駅の周辺に行くことがあったので、私はあのときのコインランドリーのあったであろう場所に行ってみたが、街の様子は変わっており、コインランドリーは見つからなかった。取り壊されて別の建物になっていたのだろう。
そして、私が住んでいたアパートが今も健在であることは、Googleのストリートビューで確認した。今、あのアパートに住んでいる住人は誰一人、私が住んでいたことは知らないだろうし、黒服の女が訪ねてきたことも知らないだろう。彼らが知らない出来事を私は知っている。そんなわずかで、取るに足らない優越感を感じながら、私は画面の向こう側のアパートを見た。

私があのアパートに住んでいた期間は二年にも満たなかったが、充分すぎるほどの思い出を私に与えてくれたように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?