活きる歌
2024.1.16(火)
このあいだ京都へ歌会に行ってきた。
京都駅を出ると京都タワーがすぐ目に入る。
いつも蝋燭みたいで和む。
天気も良くてのびのびと白いタワーが見えて、人が行き交う活気を潜り抜け、歌会の会場へ。
歌会の前日がたいてい歌の提出〆切だったりする。その時に詠むこともあれば、それより前に詠んだ一首を提出したりも。よく詠めた歌というより、これはどうだろうか?皆の批評を聞いてみたい…そういう一首を提出することが多い。
なにか言葉を、大きく言わなくても気持ちがこもることも歌の良さのひとつだと思う。
わかりやすく言わなくても大切なことはそこにある、みたいなことだ。
世の中を見渡すと、わかりやすさや情報のスピーディーなものが求められがちだけれど、私はそういうものより、長くあるものが好きだ。
短歌や版画、本もそう。
と、思いつつ、会場まで歩き、皆の歌を読んだ。今日の会はほどほどの人数でゆったり話ができる。歌会を運営されている方のおかげである。皆の場の維持の力加減もそこに加わる。
この歌のここに賛成できる、ここがよくわからない。色んな年代のひとの話を聞きながら、歌の中に入ってゆく感覚。
その日私が提出したのは、見たもの(「写生」の要素が強い)を素直に詠んだものだ。
私は、歌の言葉を薬やサプリのようには扱いたくないという思いがどこかにある。
そこにある「今」、「生」、あるいは「小さな声」を詠むこと、それだけで伝えられるもの(そのように伝えるためには修辞や調べをととのえたりと、工夫するのだけれど)を歌にしたい気持ちが強い。
歌が誰かの拠り所となる、それはあると思うけれど、歌自体の良さとは異なり、またそれらは違うところのものだと思う。
提出した歌は地味だなあ、と思っていると、それを取ってくれたひとがいた。それから、取ってなくても、こういう詠み方をしたいという声もあった。
そして、後のごはん会で、
「あの歌、歌集に入れたら活きてくると思う」と言ってくださる方がいて、嬉しかった。
必要とされる場所にその一首が置かれること。
その場所を見極める目を持つこと。
次の歌集を作る時までに磨いておきたい。
いつも京都に行くと歌への気持ちが新鮮になる。