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言葉のこと。


言葉のことを、しごとでも詩でも短歌でもやっている。
子どもの頃はちゃんと話したことがない。
(うちはステップファミリーなので、自由にふるまう子ども時代がしっかりあったわけではない。ある時期まで大人たちの期待を背負って、ちゃんと聴いてもらったことはなかった。)

色んな人と接するなかで、
言葉によって変わることや、傷つくこと、両方を見てきた。自分のことばを取り戻すことが出来たのは10代で詩を書き始めてからだろう。そこからずっと取り戻すことを続けているし、自分が言葉によって支えられてきたから言葉を信じている。

2023.10.22(日)
昨夜はセルフヘルプグループのプラットホームづくりをされているwreathの下村さんと、自由港書店の旦さんのトークイベントに行ってきた。とても温かいものだった。「言葉を取り戻す」がテーマ。

それぞれのお話を聞くなかで、
「いかに本当の自分の声を聴くことかできるか」というのが大切だと思った。

ともすれば、日々の慌ただしさで流れていきがちな思いであったり、それを選ぶことが多数には当てはまらないことであるため黙りかけたり、本当の自分の声にまでたどり着くには静かな時間が必要だと思う。
そして、内にある言葉にならないものを言語化するための時間。

この時に本や誰かのひとことが響くのだと思う。言葉が、自分にたどり着くための灯になってくれるのだろう。

私は、今は良い歌を詠むために、好きな歌をノートに書き写すくらいだけれど、そういえば10代はずっと読書ノートを作っていた。よしもとばななや村上春樹、あるいは、深夜に見た映画のセリフだったりを。ずっと言葉を求めてきたのだと思う。

それから、思いがけず、詩の朗読を聴いた。
ちょうどその一冊は、先日買い求めたばかりで、読んでいるところだった。

朗読という、一回性の、声を通じた言葉の届き方はとても詩にとっては良いものだなあと聴きながら思い出した。集中できるのだと思う。

小さな朗読会があれば良いなあ、とも思った。
詩だけでなく、小説でも、エッセイの一文でも。
なにかを共有することができるのも、言葉であり、そこにそれぞれの思いが含まれていて、時にすごい力になることがある。

いつも、仕事の時はいかにわかりやすく話すかは心がけつつも、教えるという変な強さに陥らず、対人援助的な立ち位置を忘れずにフラットな言葉を求めている。ありがちな定型で話せば仕事上は話せば楽ではあるが、それは結局ひとりには向き合えない。

短歌ではずっと小さな声を作品にしてきたし、それはこの先も続けていくのだと思う。なにせ、31音は、短い。でも、いつも短いとはちっとも思えず、それ以上の世界はある。

いちばん長くやってる詩は、第一詩集を出した頃に比べて、苦しくないものを求めるようになった。ただ最近また向き合い方が変わりつつあるのも確かで、今書きたいと思うものを書いている。

本は、物語性があるものだと、そこに自分を投影することができる。その物語の力を借りて、自分の言葉を取り戻すことができるのだろう。

セルフヘルプグループという場、そこには「語り」があり、「聴く」があり、そこで話せるものがあるのだろう。そういう場を必要とする人は今この時代に多いし、誰しも必要となることがあるかもしれない。

引き続き応援していたい気持ち。

本好きの方々とも交流できて、それぞれの大事な一冊があるのだと思うと、明るい夜になった。

言葉の、夜だった。