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「描く」という自己満足の先にあるもの[2通目 さーたり・中山交換日記]

本企画「さーたり・中山交換日記」では、漫画家・肝胆膵外科医のさーたりと、作家・大腸外科医の中山祐次郎がお互いに聞きたいことを交換日記形式で聞いていきます。コンテンツの作り手であり、外科医でもある二人の公開往復書簡、さーたりからの返信です。


拝啓 中山先生

立夏をすぎ、東京では早くも汗ばむ日が続きますが、先生のいらっしゃる福島はいかがでしょうか。私は衣替えを途中挫折したため今日は半袖シャツにコーデュロイパンツといういでたちです。さすがに暑い。下半身だけ暑い。早く夏物をださなくちゃ。

ちなみに最後にお会いしたのは2019年1月の対談ではなくて、その後2月の医療関係者のオフ会(ただ健全にお酒を飲み語らう会ですよ)です。
私はただの声のでかい飲んだくれでしたので、実のある話はたぶん何もしていませんが。

その1月の対談の際に、「なにか一緒にやれたらおもしろそうですね」と話してから1年以上たって実現するとは感慨深いです。
が、「さーたり・中山の交換日記」ってタイトル…そのままやん。もっとこうさ、センスとかひねりとか…まあいいや。


記念すべき1通目ですでに打ち合わせと違うテーマを提示されたのでこの一週間、悩みに悩みました。嘘ですけど。


さーたりさん、なぜあなたは描くのですか。お金も承認欲求も、医者をやっていれば満たされるのではありますまいか。そんなに絵や漫画を描くのは楽しいのですか。


楽しくて楽しくて仕方ない、という答えは返ってこないだろうという予想は半分あたりですが半分はハズレです。


描くことは本当に楽しい。ここ最近は筋肉のデッサンや新しい色の塗り方を練習していて、下手なりに自分の絵が変わっていくのが楽しいです。
暇さえあれば絵を描く。
絵を描く気分転換に絵を描く。
描きたい絵や漫画が浮かぶと寝るのも忘れる。

たぶん絵描きはみんなそうなんじゃないかな。


でも「漫画」を描くことは、とくにコミックエッセイは、日常の出来事とかを「私」というフィルターを通して、ぽたぽたと滲みでたそれをさらに煮詰めていく作業。自分を煮詰め炙り出し、時には自分の汚い部分を自ら暴き晒す。失敗や後悔や嫉妬や挫折や――目を背けたくなるそれらをなんとか、希望とか前向きとか口当たりの良いものを混ぜつつ、形にする。


楽しい、だけなわけがない。
楽しいけど楽じゃない。苦しい。実際私は胸をかきむしり時に号泣しながら描いている。
それでも、自身を溶かしぐつぐつ煮立った鍋の中から余計なものを削ぎ落とし、底に残った本質に気づいたとき、得も言われぬ充実感が湧き上がる。


カタルシス、というのだろうか。
描くことで私は私に浄化されている。救われている。
この感覚は、医者の仕事や育児の充実感とはまた違う快感だと思う。





「なぜ描くのか」


お金のため、ではない。それを目的にするには割に合わない苦行だ。
承認欲求、はちょっとあるかも。たくさんの人に読んでもらえたら嬉しい。


そこまでして描く理由は…結局のところ自己満足なのかもしれない。
たいした理由も目的もない。世の中に役に立ってるとも思えない。
自分を浄化し気持ちよくなりたい。
ただ、それを世に出す理由はあるのか。


それでも芸術や音楽や、ものづくりや、それらに触れるとき私たちは作り手の情熱や衝動に触れ突き動かされる。魂を揺さぶられ生を実感し糧となり新たなエネルギーを生み出す。

内なるイメージを他人と共有できる形に表すことで誰かの心を動かすならば、それは自己満足を越えて「人と繋がりたい、心を動かしたい」という目的になるんじゃないだろうか。



中山先生。
私の答えはこれです。


「描くことで誰かと繋がり、心を動かしたい」



それではゆーじろー先生は外科医の激務の中、小説だけでなく医療情報発信までされている、その理由は何でしょうか。どうお答えになるか、楽しみにしつつ衣替えでもしながら待っています。

                               敬具
 



追伸 ところで医者やってても承認欲求って満たされない気がしますがいかがですか。

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