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婚活戦国時代 真木一家の場合  ---------- Short Story ----------

 裏の林でウグイスが鳴き始めた。
「あいつらも春か」
縁側でつぶやいたのは、ここらの領主である遠山家の隠居だ。
「これから一番ええ時期になりますな」
と答えたのは隠居のそばに仕える真木徳治(以下徳治)だ。
代々この遠山の家に仕え、すでに百五十年を超える。
遠山と真木は互いの縁者が一族に入っており両家は身内のようなものだ。

だがそこはやはり侍の家。
主従の間に敷居はちゃんとあり、徳治もそこは絶対に越えないように心得ている。
「ところで軍治はその後どうか、嫁と仲ようやっておるか」
軍治は徳治の長男で、その嫁は隠居が仲を取り持っている。
「はい、おかげさまで仲むつまじくやっております」
「そうか、次は初孫じゃの」
「こればかりはこちらが焦ってもどうにもなりませぬ」
「あの家は多産の家系じゃ。わしが言うのもなんじゃが、孫が産まれるのもそう遠くはあるまい。産まれたらわしが名前をつけてやるで、勝手につけるなよ」
「いやこれはどうも、先に言われました。有難きお言葉、何とぞ宜しくお願い申し上げまする」

「へへ、実はの、息子でも娘でもええように、とっくにいくつか考えておるのよ、はよう産まれるとええな、お前の孫とはいえ待ち遠しいわい」
徳治は静かに頭を下げたが内心では有難迷惑なのだ。
隠居は家臣や領民の子に名付けをするのが好きなのだが、その名付けがときにはとんでもない名前になることがある。
徳治は神主か学者に頼んだと先に言っておく予定だったが隠居のほうが先に口にした。
縁側に立っている隠居のうしろ姿を見ながら徳治は困惑している。
(はよう言っておけば良かった、また葉奈にしかられるわい。ご隠居、たまにとんでもない名付けをしよるでの) 

 遠山が支配するここらは近隣から羨まれるような豊かな国だ。
南は海で塩も魚も獲れ、北は低い山地で柿や山菜も獲れ、東と西は平坦地で米や野菜が採れる。
あげくに冬も雪は少なく夏の乾期でもさほど過酷な暑さはない、という恵まれた土地だ。
遠山の周りの家々も同様で、そのせいか争いも無く、もめることもない。
そういう時代がずいぶん永く続いてきた。
自然と文武や治山治水に力が入り、なおも豊かになっていくという好循環が続いてきた。
一方ではそういう土地柄なので他国に比べて人間に飢餓感と緊張感が欠けている。
遠山の一族も徳治の一家一族もこういう平和が続くであろうと永く思っていた。
だがそれが最近、少しづつ怪しくなり始めている。
下剋上という言葉が表に現れ、君臣や親子兄弟でも争う時代になってきた。

その風は容赦なく遠山の家にも吹き始め、もう無関係ではいられなくなっている。
遠山の家にも『戦の場合は加勢を頼む』という申し出がいくつかあり、他国の事情を調べ知るための集まりも増え始めた。
遠山の一族は幸いにして縁戚ともみな仲は良いが、これも先のことはわからない。
親戚の者にどこぞの使者が来たとか、親戚の誰と誰が最近よく酒を飲んでいるとか、縁者であるあいつが最近急に武具を集めている、などという噂が一族の間を駆けめぐっている。
確かめてみればどれも他愛のない話しばかりだが、そういう話しにこそ気をつけねばならないことを徳治も最近になって知った。
最近では縁者同士の婚姻話しもうっかり聞き逃せなくなっている。
こっちは何もしなくても、戦は向こうからもやってくる。
来れば戦わないわけにはいかない。
話し合ったところで相手はその気でやってくる。
相手にとっては、話し合いとは戦を始めるきっかけ作りなのだ。

徳治は遠山の家の事々にも関わりながら、真木の家の事も案じねばならない。
真木の家の喫緊の問題は次男の嫁取りと長女・次女の嫁入りだ。
これも相手先と周囲を見ながら、慎重に取り組まねばならない。
先がある家か、先が案じられる家か、武力は財力は有るのか無いのか、その家の家風はどうなのか、人の気質はどうなのか。
何事も総ては書き物と伝言・噂の類で情報を集めるのだから、それが真実なのか虚偽なのかも見破らねばならない。
でもそんなことは無理だ。
「何でも男が決めるのですから、女はついていくだけ。それも当たりか外れか、その場にならないとわかりませぬ。女は本当に損にございます」
と言ったのは徳治の女房の葉奈だ。

 葉奈は気のいい女で細かなことにも気がつくし他人の子どもにも優しい。
葉奈は遠山の縁戚で徳治との間に二男二女をもうけた。
長男の軍治はすでに嫁をとり、いまは初孫が産まれるのを待つだけだ。
次男は文治、長女は青葉、次女は紅葉という。
この三人に良き嫁と良き婿を目合わせて真木の家と、ひいては遠山の家も守らねばならない。
嫁取り、嫁入り、来る話しも多いがそれだけに相手をよく見極めねばならない。
子ども同士で敵味方になるほど怖いことはない。
しかし世間の波は強く荒くなっていく一方だ。
徳治も押し流されないように必死だ。
波に流されて君臣の争い、裏切り、一家絶滅もあれば、数日前には面識のあった者が磔にされたという噂も聞いた。
下剋上の四文字はいままでの価値観をひっくり返した。
戦国の世はもう徳治の目の前まで来て徳治の髷を引っ張り出し始めている。
「猶予はない。三人の相手をはよう見つけて縁戚を広げ、家を守らねばならん。しかしこう時の流れがはようては追いつけん」
遠山の集まりに集う席でも家臣たちが言うことは同じだ。
永いこと平和でのんびりしてきたツケが回ってきている。

 そんなとき長女青葉の嫁入り先が決まった。
わがままと周囲が言うほど話しを断わってきたが、今度は乗り気だ。
「あのお方の、参ります」
徳治と葉奈はもしやと思ってはいたが、おどろいた。
相手は離島が本拠で屋敷もその島にある。
島は大きいが農地は少なくそのくせ山は多い。
当然ながら海で生きるしかない。
なので侍というよりも漁師の一家と言った方が適切な相手だ。
先方の家の者とも何度も会ったが無駄な愛想もなく口数も少ない。
だがその代わり言うことやることは実直で真面目で嘘はなかった。
加えて先方との縁がずいぶん前にあったことが決め手になった。
十年ほど前、青葉が子どものころ、海で遊んでいて溺れかかったことがあった。
そのとき助けてくれたのが、この島の領主だった。
あれから十年、その領主が息子の嫁を探していた。
それを徳治の友人が聞き、すぐに徳治に伝えた。
その領主は青葉の命の恩人であり、その息子が嫁を探している。

「わたしの命を救うてもらった命の恩人、そのご長男ならば青葉に不満はございませぬ」
と青葉は受けた。
「青葉は海も川も好きな奴で先々どうなるかと思うておったが、まさか漁師の家に嫁ぐとはの」
「縁とはわからぬものにございますな」
徳治も葉奈もたいそう喜んだが、それ以上に喜んだのが遠山の隠居だ。
「そりゃええ、ようやった徳治、わしで出来ることは何でもやってやる。青葉をすぐに送りだせ。水軍と縁ができるとはの」
「水軍と言えるほど大きな家ではございませぬ。水軍の家というより漁師の親方の家と言ったほうが」
「いや、このような世じゃ、何かあればこれほど頼りになる者はおらぬ。うちには海も舟もあるが水軍はないでの」

 ただ葉奈は相手の家にまつわる噂を案じている。
家中にもおどろいた者が幾人かいた。
青葉の婚姻に関して屋敷に顔を出した際に隠居が葉奈に言った。
「あんなものはどこでもやっておる。気にすることはない」
「あんなもの」とは「海賊」のことだ。
青葉の嫁ぎ先には以前から海賊という噂が立っていた。
確かにそういうこともやっているという噂を徳治も一度ならず聞いていた。
だが戦になれば水軍同士の戦いも物の奪い合いもあり、海賊行為もある。 「ご隠居も言われたであろう。『海賊のどこが悪い』と。戦には軍船同士の戦もあれば、敵方の荷や兵を積んだ船を攻めることも多い。海賊かどうかは見る者による」
「しかし、この戦の世になる前からも海賊であったと聞きました」
「海賊やって生き延びて、いまも一家を構えてあの辺りの海を支配しておるのじゃ大したものではないか。我が真木の家でも二百年前は何をしておったか、わかったもんではない。葉奈よ、遠山の家もそうじゃよ。ご隠居のご先祖も昔はどこで何をしておったか、わかったもんではない」
「そんなこと」

「ご隠居はたまに家系図を家臣に見せる。しかしな、あの系図はわしらが一緒になる前に京の学者を呼んで適当に書かせたもんじゃ。ご隠居は笑いながらわしに言うた『藤原だの何だのと書いてあるが、つくり物よ。じゃがの徳治よ、この家系図もこの先二百年三百年経てば本物になる。海賊でもよい、山賊でも良い、生き残って家を保っている者が勝ちなのじゃ』とな」
「はあ、まあ、そうでございましたか。旦那様がそうおっしゃるのであれば」
「青葉も大した娘じゃ『海賊の噂なんぞ平気でございます』と申したからの、あれは誰に似たのかの」
「幼少のころから危ないところに飛び込んでいく癖がございましたからな青葉は」
話しはとんとん拍子に進み、こちらでの婚儀が済んだあくる日に青葉は飾り立てられた船に乗って海賊の島へ向かって行った。
青葉は一度も振り返らなかった。
青葉の背中はもう海賊いや漁師の嫁になっていた。
「青葉らしい・・」と葉奈がぽつりと言った。

 いいことは続くもので次女の紅葉にも相手が決まった。
「片付く時は一度に片付く。目出度いが、しかし」
と徳治は葉奈に愚痴った。
「仕方ありませぬでしょう。姉は海賊の家に嫁に行ったのですから。旦那様も喜ばれたではありませぬか」
「しかし、のう、今度は海ではなく山じゃからの。今日も朋輩たちから言われた『青葉は海賊じゃったが紅葉は山賊か、面白いではないか』とな、まあ盗賊でなくて良かったが」
「海賊も山賊も盗賊も同じでございますよ。お気になさいますな」
「今度はお前のほうが腹が座っておるな」
「しかし竹かごいっぱいの松茸でその気になられるとは少しおどろきましたが」
「まあそう言うな、あれも遠山の主殿とご隠居にも分けたが、お二方とも大喜びであった。ご隠居が何と言うたと思う」
「そんなこと分かりませぬ」
「『徳治、紅葉を絶対にあの家に送りだせ。これは主命じゃ』とまで言われた」
「遠山様であれ誰であれ、松茸が大好きですものな」
「徳治は松茸で転んだ、とみなから言われておるがまあ外れてはおらんよ」

次女紅葉の相手は仙人が住むような山の中の豪族の息子だ。
支配する山地は広大だが農地はやはり少なく、必然的に植林が主になり、山菜や川魚、鳥や獣という肉食が食材になる。
だが肉食は疎まれていた時代ゆえに誤解も多かったことで、いつしかこの家には悪しき噂が流れていた。
「あそこは山賊、そして肉食」という噂である。
だが、侍の家中でも隠れて肉を食っていた家は多い。
侍屋敷の跡地で土中から獣の骨が大量に見つかることもある。
肉は焼いても煮ても臭うので周りもそうでなければ食べられない。
そしてこの家、辺りの山々が接する峠の近くに屋敷があり、近隣の街道や間道が交差する場所でもある重要な位置にある。
戦になってもこの家が占める領地は辺りの戦の勝敗を決めるような要地だ。
おまけに領地を埋める広大な杉と檜の植林、数え切れぬ薬草もたいそうな金になる。
屋敷も城のように広く、見える限りの山野がみな領地だ。

加えて山中にいれば夏の酷暑や冬の雪、ものが枯れる秋には体力がなければ続かない。
そして武具や馬具、小物などに獣の皮はきわめて重要だ。
その皮を剥げば残るのは肉と骨だ。
残った肉をそのまま捨ててはそれこそ命に対する冒涜だ。
そこで肉を食ったって不思議はない。
殺しても無駄にはしない、これはクジラに似ている。
だが表向きには中々そうはいかず、葉奈の言う肉食への拒否感も徳治には十分理解できる。
 しかし紅葉の嫁入りに一番乗り気だったのがこれまた遠山のご隠居だった。
「なあ徳治よ、わしの一生に一度の頼みじゃ、紅葉をあの家に嫁がせてくれ。向こうも乗り気なのであろう。ならば何のためらいもなかろう。頼むぞ徳治、ではそういうことでな」
「ち、ちょっとお待ちくだされご隠居様。勝手に決められても」
「お前、わしの家来であろう。いいではないか、紅葉は出来がええし、青葉と一緒にいつも海山で遊んでいたんじゃ、紅葉にも不満はあるまい。それにあれも食ったし、また食えるし」
と隠居が言うと徳治は黙った。

あれ、とは肉のことだ。
相手の使者が持ってきた土産に多量の干し柿や松茸があったが、違う箱には肉の燻製があった。
向こうは何も言わなかったが、その気で入れたのであろうことは見ればわかる。
食うか食わぬかご自由にということだ。
だが松茸はいいが、肉にはさすがの遠山の主も隠居もたじろいだ。
そこで徳治が命じられた。
「お前、食ってみ」
主命だ、徳治は死ぬ気で食った。
すると徳治は何も言わずに次をと食った。
すると主と隠居もそっと手を出した。
周りの者があれよと言う間に三人が酒の肴にして食べ始めた。
「お前たちも遠慮するな」
隠居が言うとそばにいた屋敷の者たちも続いた。

隠居が使者に言った。
「今度おいでになる際も望んでよいか」
「はい、そのむねわが主に伝えまする。望まれて嬉しき限りにございます」
徳治がこの話しをしたとき紅葉はこう答えた。
「あの山賊のお家でございましょ。海ではいまも魚も蛸も鮑も食べております。肉も食べておられるのはおおよそ思ってはおりました。仏には怒られましょうが、仏は身体や乳をつくってはくれませぬ。よろしゅうございます。嫁にまいります」
受けてくれたのは徳治には有難かった。
だが姉は海賊で妹は山賊とは、どういう因縁か、と徳治はいまも少しだけ悩んでいる。
だが松茸と干し肉は徳治の心を鎖のようにつかんでいた。
「松茸と干し肉の代わりに紅葉を差し出したおれは鬼のような父親かの」
葉奈は黙っていたが、ポロッと口走った。
「干し肉、どのようなお味でございましたか」
母も娘もよう似ておるわい、と徳治は思った。

支度も整い、良き日に紅葉は現地で式を上げた。
徳治と葉奈と文治が屋敷を振り返ると紅葉と婿が手を振っていた。
「紅葉ももうあの家の女、ほんに育ててもせいのない」
「あれでええ、あとはお前だけじゃな」
「はい、さようで」
と文治は答えた。
だが徳治は文治を見ながら、なぜか胸騒ぎがしていた。

 それから数日後、触れが出て遠山の屋敷の大広間に家臣たちが集まった。
「ご苦労である。隠居殿よりみなに話しがある」
主のそばに座っている隠居はゆっくりと話し始めた。
「近隣がますます騒々しく、各家の内情は判然とせぬ。知らぬことは疑心暗鬼を生み、最後には血を流すことになる。今までもそうではあったが、これからもみなの息子娘の婚姻あるいは養子縁組についてもその都度相手の家の事々や内情を書き物をもって知らせるように、よいな」
「ははぁ」とみなが応え平伏した。
 この頃には家が大きかろうと小さかろうと各地各家の婚姻が蜘蛛の巣のようにからんで気がつけば敵が味方に、味方が敵になっていたというのは日常茶飯事のようになっていた。
とはいえ仔細に調べればキリがない。
最後には自縄自縛になって身動きが取れなくなり、「もうどうでもいいや」となかばやけっぱちで娘を送りだしたり息子の嫁を迎え入れる家が増えてきた。
それはどこの家でも同じだ。
だが文治の相手探しはより難しくなっている。
すると今度は隠居が文治の話しを持ち込んできた。

相手が隠居となれば軽々には扱えない。
徳治は朝方に隠居のいる庵を訪ねた。
「おう、来たか入れ」
庵は茶室のようなつくりだ。
孤立していて話しは外には漏れないし、周りには二人ほど見張が立っている。
どのような話しか、今度は青葉や紅葉とは明らかに違う。
「文治じゃが、田端の養子にさせてはくれんか」
田端は隣国である青山の重臣だが、子がおらず以前から養子を探していた。青山とはいままで一度も争いはなく、いまも良好な関係が続いている。
「田端殿といえば青山様の重臣でございましょう。この上ない結構なお話しですが、田端殿は拙者の家よりかなり格上、ご本心をお聞かせください」
「へへ、さすが徳治じゃな、よい、総て話すで、文治を出してやってくれ」

だが無碍に断れないのが宮仕えだ。
「とりあえずお話しを」
と答えるのが徳治には精いっぱいだった。
隠居はこう言った。
「うん、青山の後継ぎが我が領を狙っておるが、その後ろにいる奴がいる。そいつが誰かまだわからぬ」
「あの青山が」
「そうよ、人と人の関係なんぞ糸よりももろいわ。青山の後継ぎはわが家を倒したあとで我が領地をそいつと半分分けするらしい。じゃがそれに反対する家臣は多い。その家臣のうちの主な者が二人、すでに亡くなっておる。ともに頓死じゃが毒を盛られたとも言われておる」
「毒とはまた」
「それでな文治を田端の娘の婿にして青山の様子をこちらに知らせ、陰にいる黒幕を暴いてほしい。田端もこちらの味方じゃ。ただ娘は出戻りで文治より二つ年上で三つになる娘が一人おる。文治には気の毒じゃが徳治よ、心を鬼にして文治を婿に出してくれ」

徳治には思いもせぬことだった。
「しかし文治では身元もわかっており、向こうも警戒いたしましょう」
「それで良いのじゃ、下手に隠すより遠山の目が光っていることを青山に教えてやるのじゃ」
「なるほど、そういう手もございますな」
「あの文治なら根性もある。それだけに真っ先に狙われるであろう」
「文治に死ねとおっしゃるので」
「ああ、そうじゃ、ただ一人で死なせはせぬ。一人そばにつける」
隠居は徳治の目を見ながら平然と言った。
徳治はこんな隠居の目を見るのは初めてだ。
でも徳治は妙に納得した。
(家を守るためには家臣の命も平気で捨てるか。それもまたありじゃな)
徳治は文治の気持ちには構わず即答した。
「承知いたしました。文治にはそのように言い聞かせます」
「頼んだぞ」
徳治は帰り道にどこを歩いて帰ってきたか記憶に無い。
家に帰るとすぐに文治を呼んだ。
「・・ということじゃ、出戻りの娘で子もおる」
「はい父上、よろしゅうございます。文治、その気でまいります。ご安心ください。娘も嫁御も姑殿も大事にしながらお役目も務めまする」
襖の陰で葉奈がすすり泣いているのが聞こえた。
明くる日には隠居にそのように伝えた。
隠居はしばし黙っていたが、「すまぬ」と小さな声で言った。
「あのご隠居が謝るのを初めて聞いた」
それを台所で聞いた葉奈は身じろぎもしなかった。

およそ十日後、文治は供の若者一人を連れて田端に向かった。
婿になるにはあまりに寂しい旅立ちだった。
どのような相手なのか、三つになる娘は、何よりも田端の主とはどのような人物なのか、青山の後ろにいる黒幕とは。
兄妹四人の中で一番過酷な人生になるであろう文治。
文治が街道に出ると遠山の家臣たちが三々五々、街道や家々の陰で無言で文治を見送ってくれていた。
遠く振り返ると徳治と葉奈そして軍治夫婦の姿があった。
二人は深く頭を下げた。
「さあて、行くか、黒幕の正体を明かしに」
「はい、どこまでもお供いたしまする」
と答えた供の若者は、どことなく隠居に似ていた。

 


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