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これが映画だ! 第一回


 今、私は62歳である。とりあえず名前はもうある。夏目漱石先生に倣おうと思ったが無理なようである。やっぱり、文学でも、音楽でも、此処での本論の映画でも、やっぱり“ホンモノ”は、本気の“ホンモノ”は違うのである。
 上に掲げたのは、私の写真である。勿論、若かりし頃の私である。20代の頃、カメラに凝っていた榎本氏が撮ってくれたものである。私はフェミニストではない。ただ、様々な理由で撮影してもらった一枚である。これで、コヤに立ったりしていた。(その細かい話は、次回以降にしよう…。) 榎本氏には悪いけど、長い年月が経ち、シミもついてしまった。
 とにかく、初回は私の紹介をしてゆこうと思う。私は、ある何処かの藝術大学を卒業。そして、東京で音楽ソロライヴをする傍ら、父親の遺伝子を受け継ぎ、大学時代の先輩たちの影響も受けて、俗にいう映画鑑賞に勤しむ。それもガツガツと貪るように観ていた。それがまた“音楽”に結びつく。そして、私は触発されて…の繰り返し。“文学”、私の学んできたソレは、映画は勿論、“音楽”にも歌詞という形で結びついた。
 そこいらあたりが、全てが息をし始める時代なのだが、それ以前、私が“ガキ”だった頃まで遡るが、荻昌弘氏、水野晴郎氏、そして淀川 長治氏。そして、小森和子さん(通称・小森のおばちゃま)もいた。これを読んでいる貴方は、多分一人も知らないかもしれない。皆さん他界されているからだ。今挙げた皆さんは、いずれも映画評論家だったのである。テレビ各局でロードショー番組があり、映画評論家が解説をする中、それはテレビ、視聴率などの関わりもあり、それなりにオブラートに包みながら、それでも表情や言葉ひとつひとつに棘があったのは荻氏であった。少なくとも、私の頭の中には、良い棘として抵抗していると、他のお三方よりも好きだった。特に自分のフレーズ、例えば「映画って、いいものですね。」とか「またお会いしましょう。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。」とか一切ない。
 私はNHKで放送していた、確か『世界洋画劇場』という番組と、荻氏が解説していたTBS系列で放送していた『月曜ロードショー』を幼いながら、食い入るように観ていた。
 身体が弱かった父親が、あの頃ラテ欄(新聞のラジオ・テレビ番組欄)を眺めて、「これはいいから観ておけ。」なんて言われたような覚えている。そこで巡り合った作品は、とても尊い作品が多かった。中学生のガキが、『中学生日記』なんぞ観ずに、映画ばっかり観ていた記憶がある。そういう意味では、今考えると親の、特に身体が弱かった父親の“観る”教育については間違っていなかったのかもしれない。だから、古典と呼ばれる作品を放送される度に叩き込まれた。叩き込まれたというのは、かつてのスパルタ教育のソレではなく、ガキの私には確実に柔らかい脳裏へと焼き付いたという意味で
ある。そして父親は70代で逝ってしまったが、まだ94歳で施設には入っているが健在な母親と、遠い昔母親の方の祖母や祖父は、私を劇場に連れて行ってくれた。スクリーンで観たのはゴジラシリーズだった。そう、そうなのである。それで私の頭の中はつり合いが取れていたのである。
 また、時間軸では前後するが、故・松本零士氏の“絵”が動くぞ!と…あれは小学校の頃かな?特に仲が良かった四人組で、これまた食い入るように漫画雑誌のカラーページを見ていた。それが本当に動き出したのが、『宇宙戦艦ヤマト』だった。こちらも今は亡き宮川泰先生の“音”とともに、朽ち果てた大和の外壁が崩れて“ヤマト”がゆっくりと動き出す。その瞬間、それはパクリでもない、でも何か同じブラウン管のテレビで観ていた“何か”がウワーッと巡った。何故かというと、その時すでに父親が勧めてくれた映画を観て来ていたからである。まだその時『宇宙戦艦ヤマト』が、その後映画化されて、とんでもない場所で公開されるとは知る由もなかった…。
 


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