本読むのやめてないし、書くのもやめてない。本読んで書くために、やるべきことやってんだよ。
本を読む量を学生時代から減らしていない。時間的には減っているのだろうけれど、とにかく本を読むという行為へのモチベーションを下げないようにしている。
本を読むというモードを維持するために、大して面白くもない本も、最後まで通読するようにしている。本から吸収するということ、本を通して考えるということを、いつでもできるような体を維持しておきたいから。
書くことはしばらくできていない。書くことを始めたら、途中で苦しくなって止まるか、夢中になって夜更かしするかどちらかだから。(スマホでnoteを書くということは、その点で素晴らしい。長めのツイートのような形で書ける。)
ただ、これから仕事が忙しくなって、書くことも読むことも、今よりグッと難しくなるかもしれない。帰りの電車で本を開くことが、とんでもなく億劫になるかもしれない。音楽聴いて寝ていたいと思うようになるかもしれない。何も考えずにタバコ吸っていたい、となるかもしれない。
だけど、そうなったとしても、俺は書く人であり読む人であると、ずっと言い続ける。そういう意地である。読んでない期間があるとすれば、それは次読む本を面白くするための期間である。書いていない期間があるとすれば、それはとんでもなく鋭い文章を書くための期間である。日々の経験を読み書きの助走として使い、それを幸せに昇華させるのが、俺の人生の基本的な定式だと、今は考えている。
金だって、本買うためだったり、深く考える機会のために使う。書くネタを増やすために使う。仕事の経験だって、いつか書いて伝えるためにしてる。よりよい読書体験のための、仕事の経験だったりする。現場とアカデミズム、この二項対立に俺はハマり込まない。現場を見た上で、アカデミズムの雲上へジャンプする。天上の人には味わえなかった、アカデミズム空間の飛行体験をする。そうあるために、生きる。そうあるために、俺の時間を俺に使う。そうする。
社会の歯車になって、数ヶ月経つ。歯車は美しい。面白い。大小も違い、作動しているポジションも違い、錆び方や交換時期も違う。歯車をうまく配置するためのシステムに、また歯車が使われていたりする。
肉でできた歯車。怒ったり泣いたりする歯車、欲情する歯車、意味を求める歯車、意味などないと酒を飲む歯車。
「歯車としての人生」として括るにはあまりに勿体無い、多様な経験の宝庫、それは社会。
歯車じゃない、俺は人間だ。そう主張した過去の俺こそ、社会の中で動くかけがえのない「歯車」たちを、冷徹な目で見る人でなしだった。