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(23日目) 仕事をする人になりたいです


僕は街角のクリエイティブというホームページのひろのぶ氏のコラムをいつも楽しみに読んでいる。

今朝もツイッターがひろのぶ氏の新しいブログエントリーを教えてくれて、遅刻しそうな時間帯にもかかわらずプロテイン流し込みながら何気なく眺めていた。

次第にプロテインの味がしなくなっていった。のどの奥に何かが詰まったような、そんな感じ。

これは、きちんと読まなくてはいけない。

そう思い、エントリー半ばで読むのをやめ、家を出た。

そして、今、読み返している。

慙愧の値打ちもない 

***

いつごろからだろう?「あ、これはもう無理かも」と思ったのは。

たぶん前々職の退社のときだから、32歳、ちょうど東北の大震災がおきた年だった。

この2年前くらいから、ああ、これはもう身体がもたないと思いだしていた。

(正確なきっかけは、仕事帰りの深夜自転車でふらふら帰っていたら唐突に突っ込んできた猫に轢かれてすっころんだ時だったと思う)

まずは怒りが止まらなくなった。会社の上層部、同僚、社会にまで意味もなく怒りをぶつける日々。

赦せなかった

どうしても

そして、ストレスがストレスを生み、ずぶずぶと沼にはまっていった。加えて激務。いつ終わるとも、終わったのか始まったのか分からないエンドレスな仕事。

「従業員を不幸にしてまで生産する機械が人を幸せにできるのか?」と何度も心の中で繰り返していた。

不幸とは何なのか?たぶんこのときの不幸は金がない、意見が通らない、理不尽、とかだったと思う。

もうこれ以上自分自身の業火に焼かれないようにするために会社を辞めた。逃げで転職してもいいことないって話は聞いてたから必死にポジティブな理由を心に並べ立てていたことを今でも覚えている。

けれど正直なところ、今より楽で、金もらえるところだったらどこでもよかった。もうつらい思いはしたくなかった。理不尽を感じたくなかった。

移った会社は望みどおりめちゃくちゃ楽なところだった。(たまたま配属された部署だけ、だったが)

願いは叶うものだ。

けれど、次は、組織にも社会にも大して役に立っている実感のない仕事を続けていくことに思い悩むようになった。

思い悩む中で、あんなに厳しかった仕事に実は生かされていたのだ、ということに気づく。つらかったけど、喧嘩もしたけど、いい先輩たちに恵まれ、いい後輩たちに恵まれていた。

大変な中で、みんな協力して必死に支えあっていた。

***

仕事をする、ということは本当に難しい。正確に言うと、仕事と自分との距離感というべきか。

記事のエントリーでひろのぶ氏は仕事の定義を「自分のできる能力と、自分の使える時間で、社会に存在する問題にとりかかり、自分の担当部分を解決し、自分の分のお金をもらう」と書いている。

僕は仕事がしたいと思う。

年を経るごとにその思いは強くなっていく。

今「将来何になりたい?」って聞かれたら迷わずこう答えるだろう。


「「仕事をする人になりたいです」」



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