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なんかもう最近義務感で現場行ってる疲れた限界オタクへ『同担拒否のすゝめ』

私は舞台俳優のオタクをしています。
そして、鬼のような同担拒否です。

世間一般に「オタ活」「推し活」とかいうクソつまらん言葉が浸透し、オタクの存在が特段奇っ怪な扱いをされなくなった昨今(まあ、オタクはどんな時でもキショな存在ではあるのですが)、「同担拒否」はあまり良いものではないということになっているようです。
良いものではない、というのは「めんどくさい」「こじらせ」「厄介オタク」みたいなイメージでしょうか。決してポジティブな言葉ではないでしょう。

しかし、長く楽しく無理なく、自分のためにオタクをする上で一番有効な手法が「同担拒否」だと私は考えているのです。

拒否をするというと過激な感じがしますが、私の同担拒否は、同担を刺してやろうとか現場に来れなくしてやろうとかそういった物騒なことではなく、「同担とは可能な限り接触せず、なんなら同担なんて居ないものとする」という拒否の仕方です。

これは別に全オタクにおすすめしているわけではありません。全く金を使わない、現場にも居ない、その割にインターネットで腹から声を出しているだけの茶の間には関係のない話です。

「限界オタク」と形容されるような、死ぬほど金を使ったり出勤の如く現場に行ったり、もう自分には推ししかいない!みたいな、そんな極端な珍行動を生業としている愛すべきオタクへ。
「なんかもう最近義務感で現場行ってる」とか「推しは好きだけど何が楽しいのかよくわからない」というようなオタクの救いになれば幸いです。

(もう手遅れだったらそれは、お疲れ様でした。)

ここから少し昔話をさせていただきます。
昔話には教訓があるのです。

私が過去に別の若手俳優のオタクをしていた時、それはもうたくさんの同担と連んでいました。ですがこれは、推しの魅力を語り合いたいとかそんな眩しい理由ではありませんでした。

その頃の私は、「同担の一挙手一投足が気になる」「陰で自分が何か言われているんじゃないか」「自分が知らないような推しの情報を同担が持っていたら嫌」といったような心理状態でした。そして、同担たちが実際どのくらい現場にいて、どうやって稼いで、いくらお金を使っていて、推しとどんな関係性を築いているのか。掲示板に書かれている同担の噂や悪口は一体どこまで信憑性があるのか。そういったことに興味があって仕方ありませんでした。

だから現場で良く見たり、掲示板に名前が出るオタク、要は有名厨、強ければ強いオタクほど繋がっておきたいと考えたのです。
そこで私はその当時張り付いて見ていた、某掲示板で話題の有名厨たちに、何も知らない良い人のような顔をして近づいて仲良くなるという活動を始めました。(なぜか確度100で友達になれたので、スパイの素質は人よりあるんだと思います。)

そうやって、色々な派閥の同担と仲良くなり、推しや同担に関する情報を収集しながらオタクをしていたのです。
実際繋がってみると、どんなに強くて可愛くて怖いオタクも、普通の女の子たちでした。自分と同じようなことを考えて、同じような悩みや不安があり、同じように推しのことが好きな、ただの女の子だったのです。

こちらは最悪な好奇心から近づいたにも関わらず、仲良くしてくれました。現場で会っておしゃべりしたり、たまにはご飯やお茶に行く。これはとても楽しかった。

しかし、時間が経つにつれて問題が起きました。
それは、「あんなに強いオタクたちが普通の女の子なら、私だって強いオタクになれるはず」という思い込みが発生したことです。

私はその時点でもまあそれなりには現場にはいる方でしたが、例えば全通だったり、グッズの無限回収、接触でのまとめ出し、鍵閉め…といった、そういう極端なことをするべきだ、しなければならない、と考えるようになったのです。

推しに好かれたい、強い同担と同じくらい、いやそれ以上に強くなりたい。何をするにも「周りと比べて自分はどうか」を基準にオタクをするようになりました。それまで以上に金を使い現場に通い、明らかに無理をしました。

しかし、どんなにお金を使い、推しに会う回数が増えたとて、私の幸福度は一切上がることは無かったのです。それどころか、金を使った分だけ推しに求める思いは強くなり、推しのパフォーマンスにも、認知やレスにも、自分の求めるものはどんどん強くなります。
その上、普段仲良くしている同担が自分より良い思いをしているような、そんなふうに見えてくるのです。

義務のようにオタクを続け、結果私は担降りをしました。最後の方を思い出すと、心の底から楽しくないのに無理やり金を使っていて、あんなに好きだった推しのことを嫌いになりそうでした。どっかに落としたほうがまだマシなお金の使い方をしました。本当になんだったんだ。でも、「そうしなきゃいけない」と本気で思っていたのです。

この経験から学んだことは、「周りと比較をするな、自分で決めろ」ということです。

私は当時、「推しのオタク」というコミュニティに所属することを自分のアイデンティティとしていました。
私の自意識はずっと長い間、なんでもない、空気みたいな存在でしたから、自分を受け入れてくれ、「推しのオタクです」と名乗る名前があることが心地よかったのでしょう。

だからそこにしがみつき、その中でのカーストを上げるため、誰よりも私が1番推しのことが好きという証明のため、常に周りと比較をして、自分の意思とは関係なく自分の行動を決定していました。

これが私のオタク寿命を明らかに縮めました。精神的にも、金銭的にも、体力的にも無理をしながら全力疾走していたのですから当たり前です。

では、比較をしないためにはどうしたらいいか。
答えはシンプルで、比較対象を極限まで無くす。
これです。
同担と連まなければ良いのです。
つまり、同担拒否です。

自分と他者を比較するから、勝ち負けという概念が生まれます。
金をどのくらい使っているのか。推している歴。オキニ、オキラ。かわいい、ブス。あのオタクよりも私の方が推しのことを理解している。などなど、いくらでも比較できてしまいます。
金を使うオタクはすごいし、推しのオキニでいたいし、かわいくいたいし、推しのことを理解している存在でありたい。そういう気持ちはあります。しかし、他人と比較する必要なんてなく、別に私が好きにしたらいいのです。

そもそも他人と比較をしなければ、いつだって私が1番です。相対評価でなく、絶対評価で良い。

だから私はいつだって、1番金を使っていて、1番のオキニで、1番かわいくて、1番推しのことを理解している。
妄言のように思われるかもしれませんが、比較対象が無いので、今この時点ではこれは事実なのです。

そして、全てを自分で決めること。これも非常に大切です。

「同担に負けたくないから」行く、金を使う。
「推しが出てるから」行く、グッズを買う。
こういった行動決定は、他者に選択を委ねている状態であると言えます。
選択をするという行為はそれ自体に体力が要ります。ですからこのように無意識に他者に選択を任せてしまうことはある意味楽なのです。

しかし、他者に選択を任せると、自分の期待するものが得られなかった時、その満たされなさは他責に向いてしまう。
自分が本当に行きたいか、欲しいか、やりたいか。これを無視し続けて、推しや、ましてや同担にその選択を任せていると、あんなに楽しかった現場がいつしか義務のような感覚に変化してしまうのです。

私は推し変をして、コツコツ真面目に真剣に同担拒否をしてきました。もちろん、以前のように同担が気になることも時にはあります。しかし、気にしないし無視を貫く。

結果として、私はものすごく自己肯定感が高まりました。

私が今の推しを推すようになって、早いもので3年と少しが経ちます。前の推しのオタクだった期間は4年と少しくらいでしたから、もう少しで記録を更新することになります。

今の推しを推し始めた頃は「グッズ買わなきゃ」「現場いっぱい行かなきゃ」みたいな後遺症に悩まされたりもしましたが、コロナ禍での公演数の激減などの後押しもあり、今では自分でコントロールする事ができるようになっています。
(この文章だけだと薬物中毒者の体験談みたいですが、限界オタクというのはほぼ薬物中毒者みたいなものです。あきひろお兄さんの覚醒剤体験の話は限界オタクの地獄とまったく一緒で面白いので、調べてみてください。)

行きたい現場は満足するまで何回も通うけれど、推しが出ていても「内容つまんなそうやし別にいいか…」で通わないことがあります。欲しかったらいくらでも買うし、「何に使うねんこれ」と思ったら買わない。でも、推しはめちゃくちゃ好き。
そして、私は圧倒的に強いしかわいいし、推しのオキニ!どう考えても、どの角度から見ても最高!という全能感さえあります。

見る人が見れば、丸くなったというかぬるくなったというか、気合い足りないんじゃねえかという感じかもしれません。
そしてもちろん、私が正しいオタクですと言うつもりはありません。
ニーチェが「絶対的に正しいものなんて何も無い」みたいなことを言ってました。絶対的に正しいオタクも存在しません。

私のようなオタクとしての在り方を否定したり、自分より下に見られる方もいるかもしれません。それはそれで良いのです。その人がそれで幸福なら、私はなんの問題もありません。

でも、もし過去の私のように、義務感で推しのオタクをしている限界オタクがいるなら、私は同担拒否をおすすめします。
どんな人をどんなふうに応援するかはそれぞれです。

でも、私たちは幸せになるために推しを推す。
これはどんなオタクにも共通の、普遍的なテーマであるはずです。

(ちなみに、過去の推しのオタクだった時の同担たちとは降りた今でも仲良くしてもらっています。なんというか、推しのあの時代を駆け抜けた戦友みたいな感じもあるし、純粋に人として魅力的で、好きなのです。
「推しのオタク」だから、「同担」だから、といった所属や肩書きが無くなっても、いやむしろ無くなったから友達で居られるのかも。そういう友達に出会うことができて本当に良かった。元推しに感謝していることのひとつです。)

サポートありがとうございます! 全額しっかりと推しに使わせていただきます。