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「同担殺す」系リアコオタクに読ませて感想文を書かせたい本

「同担殺す」そんな物騒な思考の持ち主が隣の席に座っている可能性があるという日常、それが我々若手俳優オタクの生きる世界です。

実際、私のブログの検索クエリは「同担 殺し方」「同担 殺したい」など非常に物騒なワードばかりです。(そんなワードでヒットすな。)

実際にはそんな方法は無いとわかった上で、どうしようもない負の感情を検索エンジンにぶつける健気なオタクたち。私はそんなオタクの感情がどうしようもなく愛おしいし、気持ちが分かってしまう。私だって同担は殺したい。だからなおのこと、そんなオタクたちが好きなのです。

私は学生の頃から筋肉少女帯が好きで、ボーカル大槻ケンヂ氏の世界観にかなり影響を受けて生きてきました。曲はもちろんのこと、彼のエッセイがとても好きで、バイブルのように何度も何度も読みました。

若手俳優オタク、とくに私のような闇のオタクにとって「リアコ」の概念はとても興味深く、ずっとその正体が何なのかを考え続けてきました。

「リアコ量産型♡推しくんしか勝たん♡同担さんゎ回れ右×」

みたいな厚底ヘアメに楔帷子みたいな痛バの女の子ではなく、

「こんにちは。ガチ恋です。金はあります。同担は全員殺します。」
みたいな、一見容姿ではわからなくとも、はてなブログや愚痴垢、お題箱には確実に一定数存在する、そんなオタクの心理のこと。自分も同担は殺したいのですが、殺したところで推しとの関係は別にどうなるわけでもない。自分が推しに求めるこの感情をうまく言語化できないことにモヤモヤしていました。

そんな時、ふと、「そういえばオーケンがB’zの稲葉さんにガチ恋してる女の子の悩み相談に乗るみたいな話が書いてあるエッセイがあったな…。」と思い出しました。その内容がどうしても読みたくなって、エッセイを何冊か読み返してみました。(肝心の稲葉さんのエピソードが書いてあるのは見つからなかったので知っている人がいたら教えてください。)その何冊かの中の一冊に、私に答えを教えてくれるような素晴らしい文章を見つけてしまいました。そういう経緯で本の紹介。

『ボクはこんなことを考えている
第5章 恋を知らない少女たち
Fancy Free Strawberries』 感想文

「推し」が語る少女たちのこと

本の著者であるオーケンこと大槻ケンヂ氏は80年代バンドブームを突っ走っていた、その当時アイドル的人気のあったバンドマンである。(今も現役。是非聴いてください。)いわば我々オタクの「推し」に当たる存在であった人物なのだ。
この章はそんなオーケンが、自分たちを(あるいは他の同じような人気商売をしている人間を)追っかける少女たちの心理を分析する。追っかけられる側、つまり(繋がりでもなければ)なかなか知ることのできない視点から、我々追っかける側を語っている。

リアコの恋は「恋」なんかじゃない

そもそもリアコとは「リアルに恋してる」の略なのだが、その「恋」というのは何なのだろう。
我々オタクは推しの「推し」という偶像しか見ることができない。推しの「人間」の部分は私たちオタクが見てはいけない部分なのだ。
オタクが見ている推しの、「推し」という側面は、推しという「人間」の一部分に過ぎない。
つまり推しとは推しという「人間」から切り取られた一部分を商品化したものであり、ブランディングされパッケージ化されたものであるということはリアコオタクの大半が気付いているのではないだろうか。

その偶像に対してリアコオタクが抱くのは、一般的な文脈で語られる「恋」とは一致しないと私は考えていた。
だから、下記のオーケンの文章は、そのむず痒いところに手が届いたようにしっくりきてしまった。

思春期の成長過程で、少女は初めて、どうしても自分の所有物にならないもの=それが人によってはバンドマンなのだ=に出会い、自我の崩壊に遭遇する。「手に入れられぬものに出会ってしまった」自分とは、はたしていかなる存在なのだろうと悩み、心が震え、この心の震えこそが「恋愛」というものじゃないのだろうか?と美しくも大きな思い違いをするのだ。

自分が推しと出会い、その魅力に気付いてしまった時。
それはまさしくこのような感情だったと私は思う。
絶対に手の届かない推しを目の前にして、自分が自分で無くなってしまうようなそんな感覚。
そして、絶対に手が届かないのを分かった上で、金を使ってしまう。使うしかないのだ。

一般的な文脈で語られる「恋」「愛」上、万札をガバガバと溶かすイベントなんて存在しない。というか、そういった金銭のやり取りが発生した時点で一般的な「恋」とは呼べない。
でもそんな一生懸命な自分に出会えたことが嬉しかったり、必死でお金を稼ぎ、使う自分のことが好きになれたりした。それは今まで見たことのない自分だった。

舞台やアイドルというエンタメは、非日常を演出するコンテンツだ。それはぼんやりと生きてきた人であればあるほど、衝撃的なものなのだ。少なくとも私はそういった実感だった。

私は推しに出会う前、趣味と呼べるような趣味などなく、ただ毎日を生きるために生きている日々だった。
実際、推しと出会った頃に書いていた私の日記には「○○さんはペガサスなんじゃないだろうか」「美しすぎて本当に存在しているのか怪しい」「尊い以外の感想が無い」といった、キモい新規オタクを絵に書いたかのような文章が綴られている。

そんな、自分が経験したことのない衝撃、心の震えを「恋」という概念に思い違いをしてしまうのだとオーケンは言う。

しかしオーケンがこう指摘するのは思春期の成長過程にある少女だ。たしかにそんな年代の女の子もたま〜に現場にいる。しかし若手俳優のオタクというのはまあまあババアが多い。観劇というのはわりかしお金のかかるコンテンツで、1公演約1万円ほどするわけだから当然成人していて自分である程度は稼げる女性が多い。「少女」と呼ぶには若干無理がある年代のオタクが多いように思う。青年期、あるいは成人期初期が多い。
少なくとも私は壮年期の成長過程にあるアラサーのクソババアなので少女ではない。恋を知らないわけでもない。でも、オーケンの言うように「少女」から抜け出せずに苦悩する人間がオタクになる確率が高いのかもしれない、と私は思う。
少女から抜け出せずに苦悩するとはどういうことか。


「女性であらねばならない」義務からの解放

生物学的に「女」として生まれ、育てられ、「少女」となった私たちはいつしか社会から、主に「男性」から、「女性」として生きることを求められるようになる。つまり少女であった時よりも圧倒的に、性愛の対象という視線を感じながら生きる場面が増えるということだ。しかし順応性の高くない人間(私のような…)は、それに対して息苦しさを感じることもあるだろう。
それはまだ自分の中に確かに残る、無垢な少女性を否定されているように感じるからである。

推しという偶像は一般的に、我々ファンという存在(概念)に対し、否定をしない。なぜなら偶像であり、ブランディングされパッケージ化された、「商品」だから。(同じ理由で肯定もしないんですけどね。そういった存在をただ受け止めるだけ。)
そういった、性愛の対象として生きることを強要してこない「異性」。それはとても特異な存在であり、同時に心地よい居場所として存在してくれていると私は思う。

ときにファンへの感謝をブログで述べ、接触イベントでは自分の言葉に笑顔で頷く。
オタクたちはそれに、「少女性という部分を含めた」自分の存在を認めてくれていると感じ、そして推しという偶像はさらに都合のよい、居心地の良い場所となっていく。

ところで、頭がおかしいと思われるかもしれないが、私は

「推しにはおちんちんは付いていない」

と本気で思っている。

推しという1人の男性には付いているのかもしれないけれど、私の認識としては推しという「商品」にはおちんちんは付いていないのだ。推しとは偶像であり、その偶像は(推しに迷惑をかけない範囲では)オタクの自由だ。

「私は推しくんのオキニ」「あのオタクは推しくんのオキラだ」「推しくんはファン思いの素敵な男性」全て、真実は推ししか知りようが無いわけだが、オタクは信じている。それも偶像の一部だと思うし、そういった偶像と同列に私の「推しにおちんちん付いてない論」はある。実際付いているのを見たこともないので、推しのおちんちんはシュレディンガーのおちんちんなのだ。(本当に何を言っている?)

このように私は推しが異性であるということは認識しながらも、「商品」である推しに対しては性別を超えた存在、「都合の良い偶像」を求めているのだと思う。

この章の中に、気合の入ったバンギャ、オタクでいうところのガッツ「お耽美ちゃん」という女の子が出てくる。オーケンはお耽美ちゃんのようなガッツの行動を、幼児期の愛情不足というトラウマを埋めるために、自己存在確認のために「追っかけ」をするのではないか、と分析する。お耽美ちゃんはまだ若くて、それこそ少女なので、アラサークソババアには当てはまらないのかもしれないけれど…。

自分に置き換えて考えるとするならば、「性愛の対象であらねばならない」現在進行形の心の傷を埋めるため、その義務感からの解放を求め、少女性の残る自己の存在確認のために、推しを推しているのではないだろうか。

推しを嫌いになる正当な理由を探し続けるオタクたち

ロック界隈に蠢く女の子たちは、常にその顔ぶれを変えていく。まるでシャボン玉のように、ふいに現れてはふいに消えてゆくのだ。

そんな消えた女の子たちと偶然街ですれ違ったオーケンは言う。

彼女たちはもう、いろいろなことに気付いたのだ。いくら夢を託しても、結局アーティストが自分にとってステイタスにはならないのだという真実を。また、その世界よりも、実は自分のテリトリーの中に夢を探す必要があるのだという事実。そして、アーティストに対する恋のようなものを捨てることが、少女から大人になるためのワンステップであるということに。

自分の中に残る少女性を手放したくない、そういう自分を認めてほしい。そうやって推しのもとに集まるリアコオタクたちも、いつまでもここに留まってはいられないということを、なんとなく感づく時が来る。自分の中に残る少女性を殺し、「大人の女性」として生きなければならないという義務を無視できなくなる時が。


そしてそういうオタクたちは揃いも揃って言う。


「推しは変わってしまった。」


はてなブログ、愚痴垢、お題箱。生きてんのか死んでんのかわからん白い掲示板。毎日誰かが言っている。

私はずっと、これを一種の古参アピだと思っていたけれど、各位の推しが本当に変わってしまったのだとしたら、その人のオタクたち全員同じことを言っていないとおかしいわけで…。

「推しは変わってしまった。」というのは単なる古参アピではなかったのだ。
オーケンは言う。

アーティストに夢中になり好きになるのは通過儀礼であり、いつかは必ず終わりが来る、と。

そして、出会った時のピュアなその想いを汚さぬよう裏切ることにならないよう、推しを嫌いになるための正当な理由づけをしようとしているのだ、と分析する。つまり推しと出会った時のあの美しい気持ちを、推しに恋をしていた自分を否定したくないという自己防衛が「推しは変わってしまった」ということにして正当化させようとするのだ。

社会というのは成長のない人間を置いてけぼりにする。成長、つまり大人になることは人間が社会の中で生きていく為には必須条件なのだと私は思っている。少女として生きることを社会的に認められなくなった女性たちは、その少女性を受け止める推しに出会い、リアコオタクになるんだろうと私は思う。

そして同担に殺されても

以上がこの本を読んで私が考えたことです。これ以外にも、オタクはなぜ連むのかとか、ヤバいオタク(妄想でおかしくなってる人)の解説とか、ファンレに対する困惑とか、そういう「推し側」の視点が語られています。私たちオタクが知りたいことって、結局推しにどう思われてんのかってことに集約されるのではないでしょうか。それを隙間から少しだけ覗き見できるような、そんなエッセイです。
ただこれは、あくまでも大槻ケンヂ氏による、執筆当時の私的見解であって、各位の推したちの意見ではありません。そこは分離して読んで欲しいのですが、これは本当にオタク心理を解説した本として名著だと思います。こんなにもリアコオタクたちに課題図書として読ませて感想文を書いてもらいたい本はありません。

まあそうやって少女でいることって私は楽しいなと思います。人によって社会の生きにくさって違うと思うけど、社会で生きていくということは楽しいだけのものでは絶対にないから。お金を払ったら一時避難所が約束されるなんて、なんて素晴らしいシステムなのだろうと思います。
そんな心地よい居場所なのだから、隣に「同担殺す」と思ってる人が居ようが、オタク同士戦争が起ころうが、今は無き某黒いところにツイッターや本名を晒されようが、結局は相手も自分と同じような生きにくさを抱えている「少女」なんだと考えると、私は誰に恨まれようが何を言われようが、それこそ殺されようが、愛おしささえ感じてしまうのです。
そんな優しい気持ちと「同担殺す」の感情は同居しているわけですが。

私はアラサークソババアだけど、大人になるにはもう少し時間が欲しい。いつか大人になる時に、またこの本を読み返したいと思っています。

サポートありがとうございます! 全額しっかりと推しに使わせていただきます。